2018年09月21日
五重塔の経塚(山口市香山町)

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瑠璃光寺境内には多くの石造物があるが、その中に石塔の五重塔がある。経塚の塔である。経塚とは、経典を長く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築くもので、五重塔の型は県内では珍しい。檀信徒、並びに参詣者各位の先祖供養、家門繁栄を祈願して書写した経典が埋経されている。
大内盛見が五重塔建立を計画したが、40年以上の歳月で完成のことを想いの撮影である。
(ニコンD200 80ミリ F8 1/250秒)
2018年09月14日
赤祢武人の碑(山口市鰐石)

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赤祢武人は岩国の医家に生まれたが、勤皇僧月性の門に学び、のち熊毛郡阿月の克己堂に入る。この地の浦氏の家人赤祢忠右衛門の養子となり、安政3年吉田松陰の門下生となる。文久3年9月高杉晋作の後を受けて奇兵隊総督となり下関で外艦と戦ったが、幕府に長州の立場を説明しようとした事が誤解となり、この地で処刑された。28歳であった。
維新150年と山口県と山口市がいうが、影の部分を写真で表現した。
(ニコンD200 60ミリ F8 1/125秒)
2018年09月07日
六地蔵 (美祢市大石)

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六道において衆生の苦界を救う地蔵、地獄道を教化する檀陀、餓鬼道を教化する宝珠、畜生道を教化する法印、修羅道を教化する持地、人間道を教化する除蓋障、天道を教化する日光の総称といわれる六地蔵様である。石の屋根は、この季節には日陰になり、雪の降る時には幸福だと思う。地元の人たちに大切にされ、野辺の信仰は生きている。
自然石で囲まれた六地蔵は県内でも見たことがない、絵になる撮影である。
(ニコンD200 70ミリ F8 1/125秒)
2018年08月31日
森永杉洞の句碑(山口市水の上 洞春寺)

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最近よく訪ねる洞春寺の山門は、大内盛見の建立で国の重要文化財である。山門のすぐ右側にある碑に〝この門を入れば 涼風おのづから〟と詠んだ森永杉洞は、佐賀県伊万里市の円通寺の師家で、明治34年生、15歳で得度して禅門に入る。杉洞は山口の風物人情をこよなく愛した事が、本堂前の“京に似し 美しき山川 風薫る”の句でよく分かる。
大内時代から明治維新までの歴史を見ての、この地を訪ねた杉洞を想いの撮影である。
(ニコンD200 80ミリ F11 1/250秒)
2018年08月24日
観音堂(山口市水の上)

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洞春寺観音堂内部を初めて訪ね、その場にある三体の像を見る。右側から25代大内義弘(香積寺)、義弘の子の27代大内持盛(観音寺)、26代大内盛見(国清寺)だが、三体は瑠璃光寺に関係する。応永の乱で泉州堺で義弘が戦死した為、弟の盛見が五重塔の建立を決意する。時代の変遷の中で四十数年の月日を要したが、1442(嘉吉2)年に創建された。
修復された像は、桧材の寄木造りで、修復の前が見たかった撮影である。
(ニコンD200 80ミリ F8 1秒 ストロボ使用)
2018年08月10日
町並み(山口市黄金町)

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旧萩往還道は、写真の右側である。西門前と荒高境の交差点から南へ行く道がこの場で、写真の中ごろに茜との地名があるが、毛利輝元公に“山口茜染云々と見ゆる”とあり、その場はアカネが多くあった事と思う。アカネは赤黄色の染料とするほか、漢方では茜根といい薬用されたという。黄金町と茜はすごくいい地名だと思う。
どちらからでもこの地に合流するし、買い物ができる西門前と思いの撮影である。
(ニコンD200 40ミリ F8 1/125秒)
2018年08月03日
周防鋳銭司跡(山口市鋳銭司)

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国道2号線から300メートルの積水ハウス工場入口前に、古代の銭貨鋳造場跡がある。日本で最初に銭貨が鋳造されたのは奈良時代の708(和銅元)年といわれ、その後平安時代初期にかけて鋳銭の事業が行われた。825(天長2)年からその大部分がこの地で鋳造され、古代貨幣皇朝十二銭のうち八つの銭文をもったものがこの地で造られたといわれる。
1千年以上も前の空想の世界で撮影していたが、周辺の雰囲気で現実に返った撮影だ。
(ニコンD200 18ミリ F8 1/250秒)
2018年07月27日
若宮神社(山口市秋穂二島南)

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秋穂二島南の人達の氏神様である若宮神社、その境内から見える焼火神社は、235段の石段は目が回り断念するが、1543(天文12)年に某氏が船で山陰方面に赴いた際、神様のお告げにより、隠岐の焼火嶽を祀ったのが創建の由来といわれる。撮影の場はその昔は海であり、由来書に「火難避けの神」とあるが、海難の守護神だったと思う事が自然だと思う。
若宮神社を訪ねるが、本殿前の石段に手すりがなく、参拝は無理だと思い鳥居と御幣を表現する。
(ニコンD200 40ミリ F8 1/250秒)
2018年07月20日
迷の石像(山口市鋳銭司)

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郷土史家の故・内田伸さんの宅に行く途中、鷹ノ子の三差路の道端に2基の石像を見る。地元では石仏と呼ばれていると聞く。この地から西が天神様の御旅所の標とか、1470(文明年間)大内政弘の姉、妙英尼が建立した顕孝院の境を示す石ともいわれるが不明である。しかし石の面に月輪と呼ばれる円が彫られており、梵字が書かれた供養碑と思われる。
石像の右は垂直で、左は絶妙に傾き、借景と共に現代美術だと思う撮影である。
(ニコンD200 18ミリ F8 1/250秒)
2018年07月13日
地蔵三尊(山口市東山)

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性乾院西門に光背型浮彫坐像を見る。もとは後河原141番地の墓地にあったといわれる。1197(建久8)年、鎌倉幕府から仁保など6防に下向した平子重経が政務を行うが、大内時代に土地の銘で仁保氏となり、毛利輝元公の時代には三浦半島を想い三浦氏となる。三浦元忠の法名竜徳性乾居士から、寺号が性乾院となる。名の変遷に歴史を感じる。
今まで見た事もない大きいものだが、彫りが僕の作品印の栗であり、笑みの撮影である。
(ニコンD200 18ミリ F8 1/125秒)