2014年02月26日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年⑨ 不撓不屈 井上馨
(19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
第一次長州征伐
ようやく下関の講和もまとまりましたが、長州藩の危機はまだまだ続きます。
先に京都御所で起こった禁門の変で「朝敵」の烙印を押された長州藩に対し、朝廷は幕府に「長州征伐」を命じます。
そして、幕府は諸大名に出陣を命じ、各方面から長州を包囲する作戦を立て、広島には3万人あまりの幕府軍が集結。総攻撃の態勢を取り始めたのです。
こうした状況を避けるため、保守派の勢力は藩政府の方針を「謝罪恭順」に一変させようと、萩から続々と山口へ進出。革新派の政府員を次々と失脚させていくのでした。
保守派の台頭
保守派一色となった山口の町では、革新派の挽回を図ろうと、馨が密かに策を練っていました。
彼は第4大隊および力士隊を率いて圓龍寺(三和町)、平蓮寺(亀山町、現在の山口市役所辺り?)に屯集している保守派の選鋒隊を夜襲し、一撃の下にこれを粉砕しようと考えていたのです。
(続く。次回は3月5日付に掲載します)
2014年02月19日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年⑧ 不撓不屈 井上馨
(12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
講和談判
8月8日、連合艦隊旗艦ユーリアラス号にて、講和談判が開かれることになりました。長州藩からは、正使・高杉晋作(=宍戸刑馬)、副使・杉孫七郎(徳輔)、渡辺内蔵太、通訳・井上馨、伊藤博文。連合国側は、イギリスのクーパー提督、各国の提督、幕僚、通訳としてアーネスト・サトウが出席しました。
攘夷派、猛反発
こうして談判が始まりましたが、諸隊、その他の攘夷論者は猛反発をします。当時、山口に滞在していた京都の公家、攘夷の急先鋒、三条実美らは藩主の世継ぎ・毛利元徳を激しく非難しました。
また、藩政府員らが「今回の講和は井上、高杉、伊藤の3人が若殿を説得し、その内命を受けて取り計らったもので、我々が深く関与した所ではない」などと、責任を転嫁するような曖昧なことを言ったため、馨ら3人の命を奪おうとする凶暴な輩も現れました。
最終的には3回の談判によって休戦条約を結び、イギリス側が要求した賠償金は幕府から取るという事に決定しました。
(続く。次回は26日付に掲載します)
2014年02月12日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年⑦ 不撓不屈 井上馨
(5日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
下関戦争
7月初旬、馨は藩命により、博文と共に姫島に赴き、イギリス艦長ドウェル大佐、通訳サトウに面会。下関の砲撃を9月まで延期するよう要請しました。しかし、交渉は失敗に終わりました。
そして、8月5日、ついに4カ国連合艦隊は17隻の軍艦に約5千人の兵を率いて関門海峡に現れました。これに対し長州藩は、国産の青銅製の大砲や木砲など70門で応戦。しかし、戦力の差は明らかでした。
約1時間で長州藩の各砲台は、ことごとく沈黙させられたのでした。
長州藩敗北
この時、馨は晋作、博文と共に山口政事堂を訪れ、1大隊の兵を出してもらうよう要請します。
「下関で敗北した場合、連合艦隊は直ちに小郡近海に進んで陸戦隊を上陸させ山口に向かって来るでしょう。その時は小郡で兵を指揮して3日間は必ず防戦するつもりであります。しかし、そこで敗北した場合、藩主父子、藩政府員におかれましては最後の覚悟を決めていただくことになりましょう…」
この後、8日の朝まで局地戦が繰り広げられましたが、長州藩の敗北は決定的となりました。
(続く。次回は19日付に掲載します)
2014年02月05日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年⑥ 不撓不屈 井上馨
(1月29日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
萩へ
「連合艦隊は近日中に下関に来襲し、我が藩は敗北するでしょう。また京都においても勝ち目はないでしょう…」
こうして攘夷論、進発論に反対していた馨は、その後も攘夷論者から猛反発を受け、命を狙われていました。
「自分はいつ命を奪われてもおかしくない…」 彼は萩へ向かいました。姉の常子、そして親友・高杉晋作にあらかじめ永訣を告げるためです。
「姉上、これが今生の別れになるやもしれません。どうぞお元気で…」
馨と常子はお互いに大粒の涙を流すのでした。
そして翌日、かつて養子先であった志道家の元養母の計らいで、当時5歳であった実娘、芳子と面会することになりました。
「お父様…」
初めて目にする実の父。芳子は馨の膝に寄ってきました。
「芳子…」
彼は涙にむせびながら、懐にあった50両と携えていた衣類とを、形見として芳子に与えました。
そして、後日晋作に別れを告げ、7月22日、再び山口へと戻りました。
(続く。次回は12日付に掲載します)
2014年01月29日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年⑤ 不撓不屈 井上馨
(22日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
池田屋事件
当時藩内は、6月5日に京都で起こった「池田屋事件」の直後でもあり、騒然としていました。
この事件で長州藩の吉田稔麿、杉山松介、熊本藩の宮部鼎蔵らが新撰組の近藤勇らと格闘し、命を落としました。そして、この知らせを聞き付け、血気に逸る志士たちは、いてもたってもいられなくなり、藩主の命令を待たずに次々と上京するのでした。
こうした状況の中、藩内ではすぐにでも京都に上ろうという「進発論」が盛んとなり、先鋒として福原越後、国司信濃、益田右衛門介の3家老が兵を率いて上京することになりました。
禁門の変
7月19日、京都では後に「禁門の変」と呼ばれたあの戦いが勃発します。
御所では福原、国司、益田率いる諸軍勢が、薩摩・会津藩の手厳しき砲弾、銃弾を受け悪戦苦闘。来島又兵衛、入江九一らが戦死。久坂玄瑞と寺島忠三郎は焼け落ちる鷹司邸にて共に刺し違えて自刃。この戦で長州藩は敗北、多くの命が失われました。
この時、御所に向けて発砲した長州藩は、その後、「朝敵」の烙印を押され、更なる危機を迎えることになるのでした。
(続く。次回は2月5日付に掲載します)
2014年01月22日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年④ 不撓不屈 井上馨
(15日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
十朋亭
その後、馨と博文は横浜からイギリス軍艦バロサ号に搭乗し、姫島(大分県)に到着。漁船を雇い、富海(防府市)、あるいは三田尻(防府市)へ渡ろうとしますが、洋装のため外国人と間違われ、誰も船を出してくれません。
そこで2人は和服に着替え、ようやく船を雇い富海に到着。三田尻で羽織袴姿となり、腰刀一振を携え、山口の十朋亭(大殿大路)に入ったのは6月24日のことでした。
山口政事堂
翌25日、2人は山口政事堂(中河原町)で、藩政府員に対し、外国の実状を報告しました。馨は藩主に対し、攘夷の無謀なることを説き、「藩論を開国へ向けて一変させるべきだ」と強く語ります。
こうした情報は、すぐに山口の町に広がりました。そこでは、諸隊や浪士が大いに憤っていました。馨と博文を攘夷の血祭りに上げようというのです。
これに対し、2人は自らの主張を曲げることなく、イギリスの実状を熱心に語るのでした。しかし彼らは嘲笑され、世間の風当たりはますます強まるばかりでした。
(続く。次回は29日付に掲載します)
2014年01月15日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年③ 不撓不屈 井上馨
(8日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
4カ国連合艦隊
「俊輔、見てみい! こりゃあ大変じゃ!」
イギリスに留学して半年が経過した1864(元治元)年の春のことでした。馨と博文は、英米仏蘭の4カ国連合艦隊が長州藩を報復攻撃するという知らせを聞き、急きょ帰国することになりました。
前年5月10日の攘夷実行から1年余り、関門海峡は長州藩の威嚇で事実上の封鎖状態にありました。欧米の貿易船、上海-横浜ルートはマヒ状態。イギリスは、「条約の完全履行の為には長州攻撃が必要だ」そう判断したのです。
長州攻撃を延期
6月10日、その頃、横浜に到着した2人は、直ちに、英国領事ガワーに面会しました。
その後、英国公使館の通訳アーネスト・サトウの紹介で公使オールコックに面会し、「長州藩の藩論を攘夷から開国に一変させようと思う。ついては攻撃を延期して欲しい」と申し出ます。
すると公使はこう尋ねました。「もし、君らの意見が通らぬ時は、再びイギリスに渡航するつもりであるか」
馨は答えます。「その時は断然、攘夷軍の先鋒に進んで、貴国の砲弾に当たって死ぬつもりだ」
公使はこの言葉を聞き、絶賛。一時、攻撃を延期することに決定しました。
(続く。次回は22日付に掲載します)
4カ国連合艦隊
「俊輔、見てみい! こりゃあ大変じゃ!」
イギリスに留学して半年が経過した1864(元治元)年の春のことでした。馨と博文は、英米仏蘭の4カ国連合艦隊が長州藩を報復攻撃するという知らせを聞き、急きょ帰国することになりました。
前年5月10日の攘夷実行から1年余り、関門海峡は長州藩の威嚇で事実上の封鎖状態にありました。欧米の貿易船、上海-横浜ルートはマヒ状態。イギリスは、「条約の完全履行の為には長州攻撃が必要だ」そう判断したのです。
長州攻撃を延期
6月10日、その頃、横浜に到着した2人は、直ちに、英国領事ガワーに面会しました。
その後、英国公使館の通訳アーネスト・サトウの紹介で公使オールコックに面会し、「長州藩の藩論を攘夷から開国に一変させようと思う。ついては攻撃を延期して欲しい」と申し出ます。
すると公使はこう尋ねました。「もし、君らの意見が通らぬ時は、再びイギリスに渡航するつもりであるか」
馨は答えます。「その時は断然、攘夷軍の先鋒に進んで、貴国の砲弾に当たって死ぬつもりだ」
公使はこの言葉を聞き、絶賛。一時、攻撃を延期することに決定しました。
(続く。次回は22日付に掲載します)
2014年01月08日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年② 不撓不屈 井上馨
(1日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
ナビゲーション!
そんなこととは知らずイギリスを目指す5人。
彼らは上海でジャーディン・マセソン商会の支店長ケズウィックより渡航の目的を聞かれました。その時、馨はこう答えます。
「ナビゲーション!」
彼は、この単語は海軍(ネイビー)を意味するものだと勘違いしていました。しかし、これは「航海術」を意味する言葉でした。
近代国家イギリス
こうして、上海からは2隻の船に分乗。馨と博文はペガサス号に乗り込みます。
2人は「航海術」を学ぶ者として水夫同様の扱いを受け、粗末な食事を与えられ、過酷な作業を命じられました。
そして、4カ月後の9月23日、ついにイギリスに到着。
彼らは、港内に停泊する多くの蒸気船、高層の建物、蒸気機関車、見るもの全てに驚愕し、攘夷の心意気は一気に消失してしまいました。
(続く。次回は15日付に掲載します)
2014年01月01日
不撓不屈 井上馨 激動の1864(元治元)年 明治維新鴻業の発祥地、山口
今年は「井上馨(聞多)、袖解橋での遭難」から150年①
1864(元治元)年6月、井上馨(聞多※1)は、親友・伊藤博文(俊輔)と共に留学先のイギリスから急遽帰国。攘夷の無謀なることを説き、開国論を唱えた。しかし、攘夷論沸騰する長州藩では猛反発を受け、命を狙われた。その後も藩内が騒然とする中、更なる困難が次々と彼を襲う―。今年は「井上馨、袖解橋での遭難」から150年。山口市湯田温泉出身の彼の半生について、明治維新研究家の松前了嗣さんに寄稿していただいた。
※1「一外交官の見た明治維新(A Diplomat in Japan)」アーネスト・サトウ著、英語版を見ると「Inouye Bunda」と記されています。
井上馨の故郷、湯田温泉
井上馨は、1835(天保6)年11月28日、周防国吉敷郡湯田村高田(現・山口市湯田温泉)に生まれ、幼名を勇吉、または友次郎と称しました。
井上家は代々毛利家の家臣でしたが、日々、田地を耕すといった農夫と変わらぬ生活。食事も、朝は雑炊、昼は一汁に漬物、晩は野菜と一汁。魚は月に3日ほど。このように大変質素なものでした。
衣類に関しても、冬でも足袋を履くことはありません。彼はその習慣からか、後年も「足袋を履くと何となく違和感がある」と言って、用いなかったそうです。
11歳の頃より、馨は山口講習堂(中河原町・山口公設市場跡地)で文武を修習。1851(嘉永4)年には、兄・五郎三郎と共に萩城下へ下宿、藩校明倫館に学びました。
1855(安政2)年には志道家の養子となり、通称を文之輔と名乗り、後に藩主・毛利敬親の小姓役を命ぜられ、聞多の通称を授けられました。馨と称したのはこれより以降のことでした。
長州藩攘夷実行
5人がイギリスへと出港する2日前、5月10日のこと。下関では、久坂玄瑞らが幕府の定めた攘夷実行期限に従い、アメリカ商船を砲撃。その後もフランス軍艦、続いてオランダ軍艦を砲撃し、勝利の喜びに沸きました。
しかし6月に入ると、アメリカ軍艦、続いてフランス軍艦が報復攻撃を開始。長州藩の砲台は、ことごとく破壊されたのです。
(続く。次回は8日付に掲載します)
松前了嗣さんプロフィル
67(昭和42)年錦町(現・岩国市)生まれ。小学生のころから歴史・民俗学に興味を持ち、現在は「NPO法人防長史楽会」「やまぐち萩往還語り部の会」などの活動とともに、講演活動にも積極的に取り組んでいる。