2015年12月16日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊽ 【幕末歴史小説】行雲流水 高杉晋作
(9日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
山口の高杉家
1866(慶応2)年10月27日、晋作は下関郊外の桜山に庵を結び、そこで療養生活を送っていました。
また、その頃彼は、山口の白石茶臼山に土地を購入。新居を建てようと考えていました。
11月24日付けの父・小忠太宛ての手紙には、新築費用は自分の貯えをあてること。2月には造築に取り掛りたいことなどが記されています。
しかし、1867(慶応3)2月、病状が悪化。4月14日、ついに帰らぬ人となったのでした。
山口に高杉家が完成し、両親、妻子が移り住んだのはその後のことでした。
行雲流水
失意の中、京都から萩へと帰郷。隠棲生活を送っていたあの頃。野山獄、自宅の座敷牢に繋がれたあの日。命を狙われ、四国へ亡命したあの時。
何度も市井に落ちぶれながらも、山口の藩主・毛利敬親、元徳父子から厚い信頼をうけた晋作。
奇兵隊創設案の建言。四カ国連合艦隊との講和談判。四境戦争の大島口、小倉口の戦い。
命を賭けて長州藩の危機を救ってきました。
空を行く雲のように、川を流れる水のように、幕末動乱の中を、時には足早に駆け、時には大股でゆったりと歩いた27年と8カ月の生涯。
晋作が人生の再出発をした山口の町には、今日もあの頃と変わらぬ、緑の風がしずかに吹いているのでした。(完)
山口の高杉家
1866(慶応2)年10月27日、晋作は下関郊外の桜山に庵を結び、そこで療養生活を送っていました。
また、その頃彼は、山口の白石茶臼山に土地を購入。新居を建てようと考えていました。
11月24日付けの父・小忠太宛ての手紙には、新築費用は自分の貯えをあてること。2月には造築に取り掛りたいことなどが記されています。
しかし、1867(慶応3)2月、病状が悪化。4月14日、ついに帰らぬ人となったのでした。
山口に高杉家が完成し、両親、妻子が移り住んだのはその後のことでした。
行雲流水
失意の中、京都から萩へと帰郷。隠棲生活を送っていたあの頃。野山獄、自宅の座敷牢に繋がれたあの日。命を狙われ、四国へ亡命したあの時。
何度も市井に落ちぶれながらも、山口の藩主・毛利敬親、元徳父子から厚い信頼をうけた晋作。
奇兵隊創設案の建言。四カ国連合艦隊との講和談判。四境戦争の大島口、小倉口の戦い。
命を賭けて長州藩の危機を救ってきました。
空を行く雲のように、川を流れる水のように、幕末動乱の中を、時には足早に駆け、時には大股でゆったりと歩いた27年と8カ月の生涯。
晋作が人生の再出発をした山口の町には、今日もあの頃と変わらぬ、緑の風がしずかに吹いているのでした。(完)
2015年12月09日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊼ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲小倉城(北九州市)
(2日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
四境戦争
その頃、長州藩の不穏な動きに対し、幕府は朝廷から、長州再征の許可を取り付けていました。
しかし、長州藩は、先に幕府が提示した、藩主父子の蟄居と10万石削減という条件を蹴り、交渉は決裂。
幕府軍は大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面から兵を進め宣戦を布告。6月7日、周防大島を砲撃し、ここに戦いの火蓋が切られたのでした。
6月12日、海軍総督に任じられた晋作は、かつて長崎で藩に無許可で購入したオテント号(丙寅丸)に乗り込み、停泊中の幕府軍艦4隻に、1隻で奇襲攻撃をかけ撃退。
6月17日には小倉口を指揮し、軍艦5隻を率いて対岸を艦砲射撃。
8月1日、小倉藩は自ら城に火を放ち退却します。
その頃、芸州口では、長州軍と幕府軍との間に休戦が成立。石州口では大村益次郎率いる長州軍が幕府軍を退けます。
こうして、9月2日には、大願寺(広島県)にて止戦協定が結ばれ、12月には小倉藩が降伏。
長州軍はわずか4千人の兵で、15万人の幕府軍を破り勝利を収めたのです。
しかし、この時晋作は、体調不良を理由に、既に戦線を離脱していたのでした。
(続く。次回は16日付に掲載します)
2015年12月02日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊻ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲グラバー邸(長崎市)
(11月25日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
薩摩へ
これより前、長州藩は、亀山社中を介し、イギリス商人・グラバーから、薩摩藩名義で小銃7千挺と、蒸気船ユニオン号を購入していました。
2月27日、藩主父子はこの恩に報いるため、晋作と伊藤博文に親書と贈物を、薩摩藩に届けるよう命じました。
彼らはまず、下関から長崎の薩摩藩邸に入りますが、薩摩では、依然として薩長同盟に反対し、長州藩を敵視する者も多いという情報を入手。晋作と伊藤は出張を見合わせ、藩主父子の親書と贈物は、市来六左衛門なる薩摩藩士に託すことになったのでした。
密留学
薩摩行きを中止したふたりは、下関を出発する際、密かに洋行を計画していました。しかし、その際預かった1500両の金はほとんど使い果たしていたため、旅費調達のため、伊藤が下関へ走ることになりました。
しかし、その頃、長州藩では幕府との開戦が迫っており、そのことを知った晋作は、長年夢に見た洋行を断念。
その後、彼はグラバー商会からオテント号というイギリス製の蒸気船を藩の許可なしに独断で購入し、4月29日、その船に乗り込み、下関へと戻って来たのでした。
(続く。次回は9日付に掲載します)
2015年11月25日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊺ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲石州街道を山口へむかう
(18日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
鴻城に入る
「独り駅馬に跨って鴻城(山口)に入る 眼を遮る風光旧に依って清し 愧ずらくは我市井に飄零するを 始めて聞く天上の鶴の声々」
9月8日、晋作は世子(藩主の世継ぎ)・毛利元徳より呼び出され、11日、山口へ入りました。
木戸孝允の尽力で亡命先の四国から下関へ戻り、長らく市井に落ちぶれていた彼は、石州街道の彼方に連なる山々と青い空に浮かぶ雲を眺めながら、決意を新たにします。
そして13日には藩主・毛利敬親に建白書を提出。
「幕府との戦いが始まることこそ、天下のため国家のため正義を回復する好機である―」
こうして彼は再び下関へと走り、幕府との戦いに向け、着々と準備を進めるのでした。
薩長同盟
1866(慶応2)年1月21日、京都において「薩長同盟」が成立します。
ここでは、長州藩の木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、そして土佐の脱藩浪士・坂本龍馬が同席。
1863(文久3)年に起きた「8月18日の政変」以来、対立関係にあった両藩が、ここに手を結ぶことになったのです。
(続く。次回は12月2日付に掲載します)
2015年11月18日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊹ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲日柳燕石旧宅(香川県)
(11日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
洋行
「此度英行も弟には大任なれども、是迄の罪を償う一端とも相成らんかと相考候、馬関もいずれ開港に相成らん―」
3月5日、晋作は、下関に滞在中の前原一誠に4千字にもおよぶ長文の手紙を認めました。
藩論が統一し、一段落ついた彼は、海外事情を知るため、イギリス行きを決めたのでした。
また、下関を開港し、国際貿易により利益を上げ、防長二州を幕府から独立させようと考えていました。
こうして、山口から伊藤博文を伴い長崎へ向かうと、そこで英国領事・ガワーに面会。下関開港を望んでいることを伝えますが、イギリス側の態度は慎重でした。
そして、イギリス商人・グラバーも洋行に反対したため、彼らは渡航を断念。下関へ引き返すことを決めたのでした。
亡命
下関に戻った晋作は、伊藤博文、井上馨らとともに開港計画を極秘に進めていました。
しかし、どこからともなくその話が漏れてしまい、それを耳にした地元の長府藩士らが激昂。
その後3人は命の危機にさらされることとなり、晋作は、芸妓・此の糸(うの)とともに、四国へと逃れることになるのでした。
(続く。次回は25日付に掲載します)
2015年11月11日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊸ 【幕末歴史小説】行雲流水 高杉晋作

権現原(萩市)
(4日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
藩論統一
その頃、萩では、晋作の友人・杉孫七郎を中心とする鎮静会議員、約200人が、政権交代を進めようとしていました。
2月20日、彼らは、自分たちの意見を伝えるため、香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎の4人を使者として山口へと送り込みます。
そこで、晋作や諸隊の幹部を集め、交渉が行われると、保守派を藩の要路から退け、藩論を武備恭順に統一することで合意します。
翌日、4人は、これを復命するため、萩へと向かいますが、途中、明木の権現原(萩市)で遭難。保守派の壮士数名により襲撃を受け、3人が斬殺されたのでした。
その後、この事件は、「諸隊の仕業」と噂されたため、激昂した隊士らは各方面から萩へと進軍を開始。癸亥丸を萩沖へ廻し、空砲を放ち、保守派を威嚇します。
こうした中、鎮静会議員らは、藩主に対し藩政改革を建言。これにより、野山獄につながれていた改革派の政府員・広沢真臣、楫取素彦らが釈放され、暗殺実行犯と保守派のリーダー・椋梨藤太が捕らわれます。
こうして2月28日、藩主・毛利敬親は再び萩から山口へと移り、藩論は「武備恭順」へと統一されたのでした。
(続く。次回は18日付に掲載します)
2015年11月04日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊷ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲奇兵隊軍監・山縣有朋(絵・苑場凌)
(10月28日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
萩進撃論
「わしとお前は焼山かづら うらは切れても根は切れぬ」
1月14日、晋作は、下関から遊撃隊を率いて、諸隊と合流。これはその時、彼が山縣有朋に贈った俗謡です。
長府では山縣と意見を異にした晋作でしたが、そのことを恨んではいませんでした。
16日、下関から駆け付けた晋作は、萩政府軍を赤村(美祢市)から明木(萩市)まで退却させます。
一方、佐々並(萩市)では、15・16日の両日、井上馨を総督とする鴻城軍が萩政府軍を撃破。快進撃を続けていました。
この勢いに乗じて晋作は、萩城下へ進軍しようと主張。しかし、山縣が異を唱えます。
「この先は高山深谷。進軍は極めて危険。そこで吾輩は、山口を根拠地とし、3方面から萩へと進む。これが万全の策と考える。じゃが、諸君が高杉君の意見に賛同するのであれば、吾輩もそれにしたがうのみ。その際は、一隊や二隊、全滅するぐらいの覚悟が必要である。ならばその時は、吾輩が先鋒を致そう」
「山縣。ここはお前のいうとおり、一旦、山口に移ることにしよう」
こうして晋作が折れる形となり、彼らは移陣を決めたのでした。
(続く。次回は11日付に掲載します)
2015年10月28日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊶ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲林勇蔵像(小郡上郷)
(21日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
大田絵堂の戦い
「四境の敵に媚び、ほしいままに関門をこぼち、御屋形を破り、あまつさえ正義の士を幽殺し、加之ならず敵兵を御城下に誘引し、恐れ多くも陰に御難題を申し立て、御両殿様の御身上に迫り候次第、御国家の恥辱は申すに及ばず、愚夫愚婦の切歯するところ言語道断―」
1865(慶応元)年1月2日、晋作は、再び新地会所を襲撃。高札を立て、保守派討伐の檄を発します。
一方、伊佐(美祢市)に陣を置く奇兵隊および諸隊の一部は、寒天凍てつく秋吉台を越え、絵堂(美祢市)へと進軍。
6日、彼らは萩政府軍の陣に宣戦布告文を届けると攻撃を開始。
後に「大田絵堂の戦い」とよばれた、あの内戦が勃発しました。
庄屋同盟
1月7日、御楯隊の御堀耕助、山田顕義らは、少数の兵を率いて小郡勘場を襲撃。代官・市川文作と談判します。
当時、藩内では諸隊への米銀貸渡し等は固く禁じられていました。 しかし、小郡の大庄屋・林勇蔵は、それにしたがわず軍資金を貸与。
農兵小二隊と軍夫1200人を援助します。
さらには、庄屋、豪農28名も同盟し、多くの人々が諸隊を支援しはじめたのでした。
(続く。次回は11月4日付に掲載します)
2015年10月21日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊵ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲了円寺(下関市)
(14日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
七政務員の死
功山寺を後にした晋作は、遊撃隊、力士隊を率いて下関へと走り、新地会所を襲撃。そこで金穀を奪い、了円寺に陣を置きます。
「今から海軍局に行く。志のある者はついて来い!」
彼は、遊撃隊の中から有志18人を募ると船で三田尻(防府市)へと向かい各船長を説得。
そこで藩の軍艦癸亥丸を手に入れると、下関へと回航しました。
その頃、奇兵隊をはじめとする諸隊も動きはじめます。彼らは12月17日、藩主への陳情を目的に長府を発し、19日、伊佐(美祢市)に進駐しました。
一方、萩では、晋作らの決起を知った保守派が、改革派の政務員・前田孫右衛門、毛利登人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵の7人を野山獄にて斬首。楫取素彦、広沢真臣らを獄に投じたのでした。
萩政府軍
12月27日、晋作は、山口の大庄屋・吉富簡一に密書を送り、軍資金の提供と、湯田の自宅の座敷牢に繋がれていた井上馨の救出を相談します。
そして、翌日、保守派の萩政府軍は、晋作らを鎮圧するため、進軍を開始。絵堂(美祢市)へと兵を進めるのでした。
(続く。次回は28日付に掲載します)
2015年10月14日
明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊴ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作

▲功山寺山門(下関市)
(7日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
月のあかり
「今宵はお暇乞いに参りました。ついては、お盃を賜りたい―」
12月15日深夜。晋作は、長府功山寺に滞在中の三条実美ら五卿のもとを訪ねました。
小具足に身を固め、兜を首に掛けた彼は、盃に注がれた酒を飲みほすと、こう大呼しました。
「これより、長州男児の腕前をお目にかけ申すべし!」
こうして一礼すると大雪の中へ飛び出し、はらりと馬に跨りました。
従うのは伊藤博文率いる力士隊。石川小五郎、所郁太郎らの遊撃隊80人ばかり。
それを制止するためやって来たのが、奇兵隊軍監・福田侠平でした。
「東行君。君は獄中での苦しみを忘れたんか。もし戦いに負けた時にゃあ、捕まってまた獄に繋がれる。この人数で一体どうするつもりじゃ」
福田は馬前で胡坐をかき、動こうとしません。晋作も少し躊躇しているようです。
すると、その様子を見ていた大砲隊長・森重謙蔵がこう叫びました。
「総督! 速やかに馬を進め給え!」
晋作は鞭を振るうと、山門を抜け有志を率いて進軍を開始。
境内に残された彼らの踏跡が、月のあかりに静かに照らされていました。
(続く。次回は21日付に掲載します)