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2019年07月24日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(185)大村益次郎


▲寛永寺根本中堂跡周辺の様子(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(7月17日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

錦絵

 東征軍と彰義隊との戦いの様子を描いた錦絵が、現在も数多く残されている。

 「本能寺合戦之図(さくら坊芳盛画・明治2年)」「東台大戦争図(永島芳虎・永島孟斎画・明治7年)」「春永本能寺合戦(英斎画・明治元年)」「東叡山戦争之図(歌川豊国画・明治元年頃)」「東台戦争落去之図(惺々暁斎画・明治7年)」「皐月晴上野朝風(香朝楼画・明治23年)」「東叡山文殊楼焼討之図(大蘇芳年・高斎年充画・明治7年)」「四十七士姓氏録(月岡芳年画・明治元年)」「地獄の大嵐(芳年画・明治元年)」「上野大合戦中堂之場(香朝楼画・明治23年)」などである。

 黒門を突破し、その奥にある弁柄塗りの吉祥閣に迫ろうとする洋装姿の東征軍の兵士たち。槍や刀で必死に防御する和装姿の彰義隊士たち。

 門前に置かれた防弾用の畳や俵。

 弾丸が飛び交う中、荷物を抱えて必死で逃げ惑う人々。

 子どもを抱きかかえて泣きわめく女性の姿。

 伽藍に立ち上る煙、そして炎。

 降りしきる雨の中での、すさまじい白兵戦の様子などが描かれている。

(7月17日付・松前了嗣さん寄稿の続き)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年07月17日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年


▲不忍池を望む(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(7月10日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

突撃

 富山藩前田家の本郷上屋敷跡は、現在、東京大学本郷キャンパスとなっている。
 当時、益次郎は、ここに、佐賀藩が所有するアームストロング砲2門を配備した。
 ここから寛永寺までは、不忍池を挟み、約600メートルの距離である。
 正午頃、東の方角に向けられた砲身が火を吹いた。砲弾は不忍池を越え黒門口や、寛永寺の象徴である中堂へ飛来した。
 この時、熊本藩も、富山藩邸の南側にあった高田藩邸から山内に向け大砲を放った。
 畳を重ねて胸壁を作っていた彰義隊のもとへ、頭上から砲弾が降って来た。砲弾は次々と堂塔に命中し始める。彰義隊に動揺が走った。
 その頃、西郷隆盛は、東征軍の指揮所となっていた松坂屋(現・松坂屋上野店)にいた。最前線で戦う薩摩軍の指揮を執っていた篠原国幹は、隆盛に尋ねた。
 「もうよかごあんどが」
 これに対し隆盛は、このように答えたという。
 「ううん、もうよかが」
 国幹率いる薩摩軍は、黒門口に向けて突撃を開始。猛烈な斬り込みが始まった。
 山内は、それまでの銃砲戦から白兵戦となった。
(続く。次回は7月24日付に掲載します)
  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年07月03日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(182) 大村益次郎


▲上野東照宮山門(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(6月26日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

雨音とともに

 「枕元にあたる父の寝間で、始まったという一声がした。愕然として目を覚まし、耳をそばだてて聴きますと、世間はひっそりとしていますが、ただ車軸を流すがごとき大雨の音に和して、ドンドンという砲声と、あたかも豆を炒るようなパチパチという小銃の音が、耳を貫くばかりで、その光景は何といってよろしいか、真にすさまじい事でありました―」
 これは、上野から直線で3キロほど離れた、本所相生町(現・墨田区両国)に住んでいたある人物の回顧である。
 この日は、その人物の家の前を、草履ばきに袴の股立ちを深く袴の腰に挟み込んだ高股立姿で、襷を十字に綾取り、刀片手に走り行く者。結び目が額の前に来るように締めた向こう鉢巻姿で小銃を負う者。草鞋ばきで手槍を提げて行く者などが過ぎて行ったそうだ。
 また、上野からさほど離れていない浅草駒形町(現・台東区駒形)では、彫刻家の高村光雲も戦況を遠望していた。
 「ドドン、ドドン、パチパチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。何ともいえない変な心持であります」
 降りしきる雨の中、砲声と銃声が鳴り響いた。

(続く。次回は7月10日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年06月26日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(181) 大村益次郎


▲弾痕が残る黒門(東京都荒川区)
実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(6月19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

砲撃と銃撃

 戦闘が始まった。
 彰義隊は、黒門口近くの山王台に大砲二門を据え、東征軍に砲撃を加えた。
 ここで450の隊士の指揮を執るのは、頭取並の酒井宰輔である。ここには、彰義隊の約半数の人員が配置された。
 応戦する薩摩軍は、激しい砲撃を受け、死傷者が続出した。
 この時、以前、山岡鉄舟とともに、駿府へ同行した益満休之助も傷を負い、それが元で帰らぬ人となった。
 薩摩軍は反撃した。彼らは、山王台に相対する、上野小路にある雁鍋という店の2階から銃撃を始めた。この攻撃により、彰義隊側にも多くの死傷者が出た。
 だが、薩摩軍の他、友軍の動きは鈍く、熊本藩の砲撃によって薩摩兵が負傷するということもあった。東征軍も連携が取れていなかったのである。
 この時のことを、後に西郷隆盛は大久保利通に語っている。
 「官軍といっても、本当に戦う気持ちがある藩は少ない。頼りになるのは長州藩のみである―」
 その長州軍は、寛永寺の背後にあたる谷中門へ向かっていた。だが、ここは起伏がある不利な地形であった。
(続く。次回は7月3日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年06月19日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(180) 大村益次郎


▲黒門をイメージした壁泉(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(6月12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

黒門口

 上野公園の南側入口の階段そばに「壁泉」がある。これは、かつてこの付近にあった「黒門」をイメージしてつくられたものである。
 この地にあった黒門は、1907(明治40)年、荒川区南千住の円通寺に移設された。黒く塗られたその門には、今でも無数の弾痕が残され、戦闘の激しさを今に伝える。
 東征軍と彰義隊との戦いが始まったのは、15日の午前7時頃であった。そこで、薩摩、鳥取、熊本藩兵が向かったのは、黒門口である。正面には薩摩藩、切り通しには鳥取藩、熊本藩は不忍池より黒門に迫る。東征軍の指揮所は、この三藩の担当場所のすぐ後方に置かれた。
 一方、彰義隊は、本坊に北白川宮能久親王を奉じ、本営を寒松院に置いた。天野八郎もここに詰めていた。
 彰義隊は、一時は3千人いたというが、当日は1千人ほどだったという。東征軍の攻撃を前に逃亡して行った者、寛永寺の外にいて戻れなくなった者も少なくなかった。
 彼らは、新黒門、穴稲荷門、清水門、谷中門、坂本門、屏風坂門、車坂門の八門に着き、天王寺にも立て籠った。
(続く。次回は6月26日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年06月12日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(179) 大村益次郎


▲上野公園にある西郷隆盛像(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です

(5日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

戦備

 江戸市中での交戦を避けたいと考えた益次郎は、戦場を上野山内に限定した。彼の編成による諸藩の配置は次のとおりである。
 黒門口=薩摩藩・熊本藩・鳥取藩、団子坂=長州藩・大村藩・佐土原藩、本郷台=佐賀藩・岡山藩・津藩。
 正面の黒門口、背後の団子坂、西側の加賀藩上屋敷がある本郷台の3方を固め、東側の根岸、日暮里方面には兵を配置しなかった。敗走路をつくることで、彰義隊による玉砕戦法を防ぎ、速やかに戦いを終結させるためである。
 真偽は不明であるが、当初、西郷隆盛は、益次郎の作戦計画に不満の色を示したといわれている。激戦が予想される黒門口に薩摩藩兵が配置されていたからである。
 「薩摩の兵を皆殺しにするつもりか」と詰め寄る隆盛に対し、益次郎は、少しも驚かず、「いかにもそのとおりである」と、厳然として答えたという。
 一方、彰義隊も着々と戦備を整えていた。
 境内には、寛永寺周辺に住む町人や侠客の子分たちによって、土を詰めて鉄砲の弾除けにするための空俵や、大量の畳が運び込まれていった。

(続く。次回は19日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年06月05日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(178) 大村益次郎


▲皇居正門石橋(東京都千代田区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(5月29日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

魚釣り

 その頃、長州軍の第一大隊、第四大隊の隊士ら725人は、江戸城桜田門の近くにあった米沢藩上杉家江戸藩邸に滞在していた。
 そこで腹を空かせた隊士らが目を付けたのが、濠に泳ぐコイやフナであった。魚は、血気盛んな隊士らにとって絶好の栄養源である。そこに彼らは群がった。
 この光景を見た益次郎は、司令・有地品之允を呼び付け厳重に注意したという。だが、その後も隊士らは益次郎の目を盗み、夜釣りに興じたようである。

開戦前

 5月14日夜、大総督府の参謀は、諸藩に次のような命令を下した。
 「いよいよ明十五日朝三字(時)まで、大下馬へ相揃うべき事―」
 15日、この日は大雨となった。旧暦の5月半ばは、現在でいうと梅雨の時期にあたる。当時、江戸では、1日から雨が降り続いていた。
 江戸城大下馬には、午前1時頃より諸藩の兵が続々と集まって来た。2時頃には、三条実美や岩倉具視も姿を現した。
 大総督府の参謀である益次郎らは、続々と到着する諸藩の参謀を呼び、作戦を伝えた。
(続く。次回は6月12日付に掲載します)
  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年05月29日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(177)大村益次郎


▲彰義隊顕彰碑(東京都台東区)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(5月22日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

上野の山

 東京都台東区にある「上野恩賜公園」。緑豊かなその公園は、春は桜、夏は蓮、秋は紅葉と、四季折々の姿を見せる。
 園内には博物館、美術館、動物園などの文化施設もあり、多くの人々の憩いの場となっている。
 ここは、1873(明治6)年、太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山とともに国内で初めて公園に指定された。1924(大正13)年、官有地であった公園は、宮内省を経て東京市に下賜される。
 かつては36坊の堂塔伽藍が建ち並んでいた東叡山寛永寺の境内地であったが、多くの建物は1868(慶応4)年5月15日に始まった東征軍と彰義隊の戦いの際に焼失した。
 彰義隊が陣を置いた寛永寺は江戸城から見て丑寅(北東)の方位にあり鬼門に当たる。その広大な台地は、ひとつの城郭ともいえる地形を成している。周囲は、新門、屏風坂門、車坂門、黒門などの門が固く守る。
 上野を押さえることは、日光街道の口を閉ざすことにもなる。
 5月13日、東征軍の参謀は、諸藩の隊長に対し、彰義隊討伐を布告した。討伐戦の準備が進められていく。

(続く。次回は6月5日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎

2019年05月22日

明治維新鴻業発祥の地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年○(176)


▲寛永寺にある上野戦争碑記(東京都台東区)

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(5月15日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

軋轢

 当時の軍議の様子を、長州藩の寺島秋介は、こう語っている。
 「今度はいよいよ、上野追討の御軍議ということになった。今日では立派な人であるが、その時は勝(海舟)などと終始往復しておった人で、その人と大村が非常な喧嘩をやったのだ。その反対者のいうには、『かくのごとき僅かな官軍をもって、江戸で兵を挙げるということは、実に無謀な話である。既に床の下まで、火が廻っているようなものであるから、もしも殿下(有栖川宮熾仁親王)が御身の上に一朝何事か危害のことが迫ったなれば、再度、京都へお帰りになることもできぬようになる』といって嚇かす。そうすると、大村先生がいうに、『いや、決してそのようなご心配はない。これで充分戦のできぬことはない。益次郎、御受け合い申します』その反対した人を指して、『彼どもは戦をすることは知りませぬ』というものだから、さあ、その先生、憤り出して『戦を知らぬなどということは何事か、益次郎、言語道断な奴じゃ』というようなことで-」
 この時、益次郎に反発していたのが、薩摩藩の海江田信義であった。
(続く。次回は5
月29日付に掲載します)  

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2019年05月15日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(175)大村益次郎


▲上野恩賜公園(東京都台東区)

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(5月8日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

軍議

 5月初旬、大総督府において、彰義隊討伐のための会議が開かれた。その席で益次郎は、「上野攻撃については、全責任を自分に負わしてもらいたい」と申し出た。
 この時、薩摩藩側からは、様々な意見が出たが、西郷隆盛は、「大村先生が身を以て当たるといわるる以上、よろしく先生に一任すべきである」といい、反対意見を押さえ、益次郎の主張を快く受け入れたという。
 だが、その作戦については、大総督府の参謀や、益次郎の部下の中にも、白昼堂々の戦いには自信が持てず、夜襲を主張する者が多かった。こうした意見に益次郎は反発した。
 「官軍は王師である。勅命によって賊徒を討つのであるから、白昼公然と、正々堂々戦うべきであり、夜襲のごときはとるべきでない。もし夜襲を行えば、敵は夜陰に乗じて四散し、市中に放火して、江戸を灰燼に帰せしむる危険がある-」
 益次郎は、江戸の市民にはなるべく迷惑をかけないようにせよといった朝廷の趣旨を主張。むやみに人民を殺傷したり、家屋を焼き払い、財産を奪うことを禁じ、戦禍を最小限に食い止めることを考えたのである。
(続く。次回は5月22日付に掲載します)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)四境戦争 大村益次郎