2019年05月01日
明治維新鴻業の発祥の地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(173)大村益次郎
▲江戸城外桜田門(東京都千代田区)
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(4月24日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
徳川家処分
当時、大総督府では、徳川慶喜の江戸帰還、江戸城の返還、徳川家所領の現状維持などといった、勝海舟の意見に賛同する者が大半を占めていた。
こうした状況の中、閏4月24日、江戸城に三条実美の姿があった。
そこで彼は、大総督府、各道総督や参謀らを集め会議を開くと、翌日、徳川家に対する処分が内定した。それは、次のような内容であった。
「徳川家の相続人は田安亀之助とする。徳川家へは70万石を与える。居城として駿府城を与える。旗本で所領を持つ者は朝臣として新政府に召し出す。徳川家が所領70万石で撫育できなければ、所領を持たない旗本、御家人も朝臣として召し出す。俸禄も相応に下す。江戸には太政官各局を移す。江戸城は新政府が召し上げる」
この原案を、実美は、有栖川宮熾仁親王に示し、承諾を得ると、その日の夜、徳川家処分が決定した。しかし、内容については、公表することは憚られた。
徳川家の反発を警戒した実美らは、徳川家に対しては、相続の件のみを申し渡し、居城と石高については後日発表することにした。
(続く。次回は5月8日付に掲載します)
2019年04月24日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(172)大村益次郎
▲江戸城外濠(東京都千代田区)
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(4月17日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
強行路線
大総督府の対応に対し、益次郎は不満を抱いていた。そのため彼は、京都への帰り仕度をしていたという。
ところが、旧幕府側に対し、強硬路線を支持する輔相・三条実美が、関東監察使として江戸へ入ると、益次郎は大総督府における軍事指揮権を掌握することになる。
当時、西郷隆盛の意を受け、旧幕府側に対し、融和路線をとっていたのが、薩摩藩士で東海道先鋒総督府参謀を務める海江田信義であった。
彼は、旧幕府側の軍艦引き渡し問題では、勝海舟の働きかけを受けて、全ての軍艦の中から4隻の軍艦を引き渡すことで合意したが、その船は、軍艦とは名ばかりの老朽船であった。
さらには、引き渡された軍艦で、旧幕府側の脱走兵を攻撃しないで欲しいという申し出までも受け入れてしまい、念書も書いていた。
こうして、海舟は、彰義隊や榎本武揚が率いる旧幕府海軍などを持ち駒にしながら、大総督府との交渉を有利に進めていった。
しかし、実美の江戸入りによって、それまで融和路線であった大総督府の方針は転換し、新たな展開を見せることになる。
(続く。次回は5月1日付に掲載します)
2019年04月17日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(171) 大村益次郎
▲江戸城桜田巽櫓(東京都千代田区)
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(4月10日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
江戸着任
これより先、1868(慶応4)年閏4月4日、益次郎は、軍防事務局判事として、大総督府を補佐するよう命じられ、江戸に着任した。
その頃、大総督府参謀・西郷隆盛は、彰義隊の暴状を、やや黙認する形を取っていた。
隆盛は、江戸城内での戦いには反対であり、治安については、勝海舟らを信頼し、全ては時が解決すると考えていた。
また、東征軍の規律も緩慢になり、制御する勢力も無くなっていた。
このような弱腰の大総督府に対し、不信感を募らせていた京都の新政府首脳は、佐賀藩士・江藤新平を江戸に派遣し、実情を探らせた。
新平は、大総督府が、海舟らに籠絡されていると判断し、彰義隊の討伐を進言した。
しかし、東征軍の戦力では、数千の彰義隊を壊滅させることは不可能に近い。そこで、この現状を打開すべく抜擢されたのが、益次郎であった。
新政府首脳の期待を一身に背負い、江戸城へと入った彼であったが、大総督府の態度は冷淡であった。
参謀たちは、江戸城無血開城を実現させた今、彰義隊と交戦し、江戸の町を混乱させることは避けたかった。
(続く。次回は4月24日付に掲載します)
2019年04月10日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(170) 大村益次郎
▲寛永寺書院(東京都台東区)
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(4月3日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
衝突
江戸城が明け渡された後、江戸の町では長州藩、薩摩藩、芸州藩ら東征軍の兵士たちが市中を横行していた。
そこで、北白川宮能久親王を奉じ、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺に留まっていた彰義隊は、朱文字で「彰」や「義」と書かれた提灯を手に、江戸市中の巡らを行い、東征軍の兵士と度々衝突をした。
彼らは、月代を狭くした講武所風の髪型で、浅黄色の羽織に白い義経袴を着し、朱鞘の大小を腰に帯び高下駄を履いた。
当時の様子を描いた錦絵「名誉新談」には、東征軍が肩に付けていた錦片を彰義隊士がもぎ取った姿がある。
錦片を持ち、得意そうな顔をしている彼の名前は、岡十兵衛である。
彼らは、無政府状態となった町で、盗賊や凶徒を捕え、庶民から人気を博したという。
「情夫に持つなら彰義隊―」
こうして、彼らは、江戸吉原の花魁の間でも持て囃されたという。
だが、5月1日、大総督府によって、東征軍が市中巡らを行うことが決まると、彰義隊の存在意義は失われてしまう。
5月7日、ついに彰義隊、東征軍双方に死傷者が出た。
(続く。次回は4月17日付に掲載します)
2019年04月03日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(169)大村益次郎
▲江戸城平川門(東京都千代田区)
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(3月27日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
総攻撃の中止
海舟と隆盛は、慶喜の水戸での謹慎、軍艦や砲銃の引き渡しなど、7条件で合意した。
これにより、3月15日に予定されていた、東征軍による江戸城総攻撃は中止となった。
こうして隆盛は、駿府に戻ると、親征大総督に復命。20日、京都へ入ると、朝議が開かれた。
そこでは、岩倉具視や木戸孝允らが寛大論を唱え、大久保利通も折れる形となり、7条件は承認された。
江戸城無血開城
4月11日、江戸城は東征軍に引き渡された。この日、慶喜は、上野寛永寺から、水戸へと退去した。
だが、その後も江戸とその周辺は、不穏な空気に包まれていた。
旧幕府側の軍艦、銃砲の引き渡しについては、元海軍副総裁・榎本武揚が、それに応ずる気配を見せず、12日には安房館山に退去。17日、海舟の説得により、品川沖に引き返してきた。
また、元歩兵奉行の大鳥圭介は、江戸を脱走し、旧幕府軍の伝習隊を率いて北上をはじめた。
護衛すべき慶喜が去った寛永寺では、その後も彰義隊の大勢を占める天野八郎らの強硬派が気を吐いていた。
(続く。次回は4月10日付に掲載します)
2019年03月13日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(166) 大村益次郎
▲江戸城坂下門(東京都千代田区)
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(3月6日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
分裂
義兄弟の契りを結んだ渋沢成一郎と天野八郎だが、その後、穏健派の成一郎と、強硬派の八郎は、次第に対立するようになった。
成一郎は、隊士を幕臣に限っていたのに対し、八郎は、身分や器量にかかわりなく隊士を受け入れており、両者の確執は激化していった。
やがて、彰義隊は分裂し、成一郎らは強硬派とは一線を画し、寛永寺の北にある天王寺へと移った。
主導権を握ることになった八郎は、積極的に入隊希望者を採用し、勢力を拡大していった。旧幕府諸隊、脱藩浪人なども加わり、その数は2千から3千人といわれるほどにまで膨れ上がった。
駿府入城
3月6日、親征大総督・有栖川宮熾仁親王が率いる東征軍は、駿府(現・静岡県)へ入城した。
駿府は、江戸と京都を結ぶ要衝の地である。
江戸幕府を開いた徳川家康は、秀忠に将軍職を譲ると、この地に城を構え、朝廷と西南諸藩をけん制したという。
東征軍は、この地を占領することで、勝利の確信を持った。江戸城総攻撃は15日と決まった。
(続く。次回は3月20日付に掲載します)
2019年03月06日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(165)大村益次郎
▲天野八郎の墓がある円通寺(東京都荒川区)
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(2月27日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
香車
その後、彰義隊は、浅草本願寺を屯所とした。
頭取には徳川慶喜の警護を目的とする穏健派の、渋沢成一郎、副頭取には、新政府軍への抗戦をも辞さない、強硬派の天野八郎が任じられ、ふたりは、義兄弟の契りを結んだ。
八郎は、1831(天保2)年、上野国甘楽郡磐戸村(現・群馬県)の庄屋・大井田吉五郎の次男として生まれ、35歳の時、幕府与力・広浜利喜之進の養子となり、幕臣となった。
彼は、強欲な高利貸しの家に乱入して懲らしめたという逸話を持つ、正義感あふれる剛毅な人物であった。
背が低く太っていたが、実に敏捷で、2間(約3・6㍍)くらいの堀は楽に飛び越えたという。
また、剣術にも長けており、その太刀さばきは、目にも止まらぬ程であったといわれている。
八郎は、槍印などの印に「香車」という文字を好んで用いたという。将棋の駒である香車は、前に進むのみである。一歩も引くことのない彼の強い決意がそこに現れている。
「決して香車に恥じず。天地何をか恐れん」。
八郎は、信念を貫き、一直線に突き進んだ。
(続く。次回は3月13日付に掲載します)
2019年02月27日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(164)大村益次郎
▲寛永寺旧本坊表門(東京都台東区)
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(2月20日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
廟算
「一、海陸軍大総督駿府城へ礎陣を被据諸手の指揮被為在候事。一、東海道東山道北陸道三道の先鋒は御沙汰次第諸藩兵隊を揃え速に進発路次諸藩其他の方向を定め二月中左の根拠に地方を占めるを要す―」
これは、北陸道先鋒兼鎮撫使総督府副総督・四条隆平が、京都より同総督・高倉永祜に交付した文書の中にある、「廟算」という東征の方策の一部である。
この機密文書は、軍防局にて、益次郎らが作成したものといわれている。
彰義隊
1868(慶応4)年2月12日、徳川慶喜が上野寛永寺に移ったこの日、江戸の雑司ヶ谷の料理屋・茗荷屋への集合を求める文書が、一橋家の家臣たちの間に回った。
家臣たちは、かつて、一橋家の当主であった慶喜を、護衛することを申し合わせようとしたのである。
だが、この日、集まったのはわずか17人。この時、彼らは、自らを「尊王恭順有志会」と称した。こうして、17日には四谷の円応寺で会合を開くと、30余人が集まり、21日の会合では67人が集まった。22日には隊名を「彰義隊」と改めた。
(続く。次回は3月6日付に掲載します)
2019年02月20日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(163) 大村益次郎
▲戊辰之役戦士顕彰碑(鹿児島市)
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(2月13日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
300藩の行方
東征軍出兵にあたり、次に挙げる約50藩が、長州藩、薩摩藩を中心とする新政府軍へと加わった。黒羽藩、高徳藩、伊勢崎藩、高田藩、金沢藩、岩村田藩、田野口藩、高島藩、飯田藩、沼津藩、掛川藩、浜松藩、横須賀藩、田原藩、挙母藩、郡上藩、加納藩、大垣藩、名古屋藩、長島藩、津藩、久居藩、和歌山藩、彦根藩、大溝藩、山上藩、西大路藩、水口藩、三田藩、山家藩、亀山藩、鳥取藩、岡山藩、生坂藩、鴨方藩、広島藩、徳島藩、宇和島藩、土佐藩、小倉藩、福岡藩、久留米藩、岡藩、佐賀藩、大村藩、熊本藩、佐土原藩などである。この他、多くの藩が新政府軍へと加盟していった。
一方、仙台藩、会津藩、秋田藩、盛岡藩、米沢藩、庄内藩、二本松藩、弘前藩、棚倉藩、新庄藩、中村藩、三春藩、山形藩、上山藩、平藩、福島藩、松前福山藩、一関藩、出羽松山藩、本庄藩、守山藩、八戸藩、亀田藩、泉藩、天童藩、秋田新田藩、湯長谷藩、七戸藩、長瀞藩、下手渡藩、米沢新田藩、黒石藩、矢島藩、新発田藩、長岡藩、村上藩、村松藩、三根山藩、黒川藩、三日市藩は、奥羽越列藩同盟を結成。会津藩救済を図った。
(続く。次回は2月27日付に掲載します)
2019年02月06日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年(161) 大村益次郎
▲大慈院跡に再建された根本中堂(東京都台東区)
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(1月30日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
慶喜の謹慎
これより先、1868(慶応4)年2月12日、徳川慶喜は、江戸城を出ると上野寛永寺の塔頭・大慈院へと入った。城外で謹慎生活を送ることで、新政府に対し恭順の姿勢を示したのである。
1月12日、江戸城へ入った慶喜は、20日に会津藩の負傷者を藩邸に見舞った。だが、この時彼らは、慶喜のことを「誠に腰抜け御座候」と評し、陰で口々に悪口をいうなど、誰ひとりとして喜ぶ者はなかったという。
その間、旧幕府内では、新政府に対し徹底抗戦するか、謝罪恭順の姿勢を示すか、いずれの道を選択すべきかをめぐり議論が沸騰していた。
勘定奉行・小栗忠順、海軍副総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは強硬な主戦論を唱えていた。
また、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬も再挙を主張した。
これに対し、陸軍総裁・勝海舟、会計総裁・大久保忠寛らは、徳川家存続のため、恭順を主張した。
こうして、城内において主張される両論に揺られながら、慶喜は、ようやくその態度を明らかにしたのである。こうして、彼の謹慎生活は、2カ月間に及んだのであった。
(続く。次回は2月13日付に掲載します)