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2019年07月24日

大屋の刑場跡


文・イラスト=古谷眞之助


実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

 長州藩の牢獄に野山獄、岩倉獄があったように、萩藩では刑場までが武士階級のものと、それ以外の庶民のものとに明確に区別されていた。後者のそれが大屋の刑場である。
 1759(宝暦9)年6月、ここで我が国初の女体の解剖が行われた。我が国初の解剖を行った山脇東洋の弟子で萩藩医・栗山孝庵が取り仕切り、解剖されたのは川上村の農民・久右衛門の妻「美濃」(17歳)だった。萩藩士・榎本源之進と恋仲だった彼女は嫌々嫁がされたためその後も彼と密通を続け、ついに磔刑の処分が下る。それを知った孝庵は、内臓を傷つけぬように磔を斬首に変更する嘆願書を提出し、理想的な形で遺体を解剖したのである。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)イラストでたどる萩往還

2019年06月26日

No.3 悴坂一里塚


文・イラスト=古谷眞之助


実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

 萩往還を歩いて最初に出会う一里塚(萩藩では一里山とも言った)は、「道の駅萩往還」近くにある悴坂一里塚である。積み上げた玄武岩の上に土を盛った塚の中央に、かつては高さ一間、五寸角の塚木が建てられ、唐樋札場からと三田尻までの路程が記されていた。現在のものは石製で、昭和14年に萩市が建てた。
 ところで、萩往還は一般的に十二里、約53キロメートルと言われているので尺貫法とメートル法の換算が合わないと思われる方も多いだろう。実は萩藩では検地の際に一間を六尺ではなく六尺五寸(197センチメートル)としていた。そのため一里(2160間)は約4.3キロメートルになり、ほぼ辻褄は合うのである。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)イラストでたどる萩往還

2019年05月22日

No.2 涙松の遺址


▲文・イラスト=古谷眞之助


実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

 萩往還の出発点・唐樋札場から橋本川を渡って南に進んだ山間の曲がり角に「涙松の遺址」がある。ここは萩の街並みを眺望できる最後の地点。旅人は皆、往還松のそばで別れの涙を流したと伝えられている。
 1859(安政6)年5月25日、安政の大獄に連座して江戸送りとなった吉田松陰は、唐丸駕籠から出されて別れの一首を残した。「かえらじと思ひさだめし旅なれば 一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」。その秋に伝馬町の獄舎で斬首される彼は、すでにこの時、死を覚悟していたのだろう。この日は雨模様だったという。五月雨の雨滴とも涙とも分からぬものが一筋、故郷・萩を振り返る松陰の頬を伝い落ちたに違いない。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)イラストでたどる萩往還

2019年04月24日

No.1 唐樋札場


▲文・イラスト=古谷眞之助



実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

 萩往還とは、江戸時代初期に参勤交代用に整備された街道で、お城のある日本海に面した萩と瀬戸内海に面した三田尻(防府)をほぼ一直線に結び、その全長は約53㌔に及ぶ。今なお往時を偲ぶ石畳や一里塚が残り、整備もしっかりされているので春秋には気持ちの良いウオーキングを楽しむことができる。筆者はその萩往還のガイドをして十年近く、これまでのガイド回数も百回を超えた。その経験を基に今回から萩往還の見所をイラストと文章でご紹介したい。
 萩往還の起点は、実は萩城ではなく、萩の街の中心にあった唐樋札場。ここは萩往還、赤間が関街道、石州街道が交わる交通の要衝で、御触書などが掲げられた高札場でもあった。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)イラストでたどる萩往還