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店長情報

2002年03月31日

札の辻・21

 3月21日春分の日、彼岸の墓参にわがふるさと、なべづるの村熊毛町八代へ帰省した。
 村に入る手前、佛坂峠近くにあるなべづる飛来数を知らせる掲示板に、只今3羽と記されていた。  今冬は過去最低の17羽の飛来にとどまり、去る3月13日にシベリアへ向かって飛び立ったと聞いた。
 村の人に聞くと、13日に飛び立ったのは13羽で、3羽だけがまだ残っているという。越冬した17羽のうち、足をケガしていた1羽が、2月下旬から行方不明になった。3羽の居残りツルはその家族で、ナベヅル監視所の話によると行方不明になったツルは成鳥のメスであることから、父親と幼鳥2羽であるとのこと。
 ツルの集団というのは家族単位の集合体である。夫婦1組、または夫婦と幼鳥が1羽か2羽で1家族が構成されている。
 戦前、八代村で電線に触れてケガをしたメスの傷が治るのを待つオスが、ドジョウやタニシなどの餌を運びつづけ、田植えのはじまる頃にようやく北国へ向けて飛び立ったという逸話がある。夫婦ヅルの愛として当時の雑誌や新聞に掲載されたと聞く。
 ナベヅル監視所による最近の記録では、1988年(昭和63年)にもやはり足を電線事故でケガをしたツルのために、群が飛び立ったあとも連れが居残り、18日間遅れて2羽が共に帰っていった。
 3月22日、KRYテレビは母ヅルを気にして居残る3羽のツルの状況を中継した。
 その後の3羽は24日朝8時半ようやくシベリアに向かった。
 里の山々にコブシが咲きアセビの花が匂う時期までの残留は異例である。
 あきらめ得ぬ親子ヅルの旅立ちがいじらしい。(鱧)   

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年03月29日

赤根武人の碑(山口市旭通り)



 赤根武人は、大島郡桂島の医家三宅氏に生まれる。幼少は僧月性に学び、後は熊毛郡阿月の郷校克己堂に入り学ぶが、その時期この地の赤根家の養嗣子となる。のち吉田松陰の門下生、京都の梅田雲浜にも学んだ超エリートである。高杉晋作の後を受け奇兵隊の総督となり、下関で外艦とも戦ったが、幕府に近づき長州の立場を説明した事が内応したことと思われ、この地で処刑された。無念の気持ちは計り知れない。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年03月24日

札の辻・21

 米山荘が料亭としての店を閉じることになった。
 長い間出入りした身にとっては想い出も深く、惜別の情しきりである。
 国道9号線バイパスの開通するまでの米山荘裏は、県庁前から荻峠を越える旧道が通 るのみで、鴻ノ峯からせり出した台上にある屋敷は老松老杉に囲まれ、四季の風に松籟を、夜更けては梟の声も聞いた。
 自然林と調和した広大な庭園の一角には孟宗の竹林もある。
 先代の八木さんが存命だった頃の春の夜、話し相手として招かれたことがある。料理には旬の魚のほかに朝掘りのタケノコの木の芽和えも出た。最後はミツバめしである。庭隅に伸びた新芽のミツバを塩茹でし、茎だけを細かく刻み、炊き上がったばかりの御飯に混ぜ合わせたもので、噛んでふくめるようなおだやかな八木さんの話と、香り高いとれたての春の味覚が今によみがえってくる。
 米山荘はもともと料亭ではない。
 大正末期に建築された八木家の私邸である。
 鴻ノ峯を背にし、前方に山口盆地の街並みが眺望できる高台にある屋敷は、終戦時に占領軍に接収された。そして接収解除後に料亭として再出発したのである。
 自治省次官から日本テレビの会長となった小林与三次氏は、来山のたびに米山荘での食事を楽しみにしていたが、それが茶ガユであった。小林さんは「ここの茶ガユと漬け物は長州の味である」と喜ばれ、その当時の女将だった故黒川玲子さんは、小林さんからお礼にと日本テレビ本社内にある割烹「作古亭」に招待をうけたこともある。
 米山荘にはこれからタケノコが生え、ミツバが伸び、石楠花からサツキへと花がつづき、やがて赤松の梢に春が行く。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年03月22日

山口漁協前の港(山口市秋穂二島)



 山口市には山が多く海は無いと思われる人は多いと思うが、秋穂二島に海があり、山口漁協前で毎週日曜日の午後4時~6時まで ”さかなの直売所”が開かれている。漁を終え帰ってくる船に、サギやその他の鳥も船と一緒に帰港する。開場をまたずに交渉する人もいる場は楽しい風景となる。瀬戸内海の小魚やタコ、カニ、シャコなど新鮮なものが多くあり、この日の夕食は美味であった。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年03月17日

札の辻・21

 今年の春の到来はテンポが速い。
 2月下旬に長崎県の大村湾をめぐる旅行をしたとき、海は春がすみのひろがりを見せ、バスの窓からは飛び交うツバメが見られたし、畑に満開の菜ノ花があった。
 山口でも先日のプロ野球オープン戦広島-横浜の試合のとき、西京スタジアムに入る坂道の歩道沿いに植栽されている梅はすでに散りはじめ、代わって桃が満開となっていた。
 そして3月10日下関気象台は、県内に春一番の風が日本海を進む低気圧の影響をうけて吹いたと発表した。
 昔から壱岐地方で春に入る頃、最初に吹く強い南風を春一番と呼んでいた。最近は語感の良さから天気解説にも使われ、春近しの頃日本海低気圧により吹き込む強風を指すようになったが、気象用語だけでなく、商品の宣伝文句にも登場するが、語感だけの利用で本来の意味と違っていることが多い。
 天気図できめられた春一番の吹く平均日は2月22日である。これによると今年の春一番は少々遅れたことになる。
 陰暦の2月22日は大阪四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)で、この日には貝製の造花を供えるきまりがある。この貝は難波の浦に冬の名残をつげる貝寄風と呼ぶ季節風が吹いたあと採るという。
 春一番、二番と吹くアラシの日を数えて、春三番の頃はサクラが散らされ、「花起こし」「花散らし」とも呼ぶ。
 一の坂川の河畔にサクラ吹雪が舞い、散った花びらは重なり合って花筏となりゆったりと川面 を下る。
 花ニ嵐ノ例エモアルゾ。  サヨナラダケガ人生ダ。
と中国の詩人は詠んだ。 (鱧)   

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年03月15日

白壁の街並み(柳井市)



 久々に柳井を訪ね、きれいに整備された町並みに感動した。古い建物が老朽化し崩れる姿を多く見ているからである。大内時代、東の要港として栄えたといわれるこの地は、寛文3年(1663)から干拓が進み、各地から商人が集まり店舗を構えたと聞く。山口でも商業地の間口の幅が狭く、奥行きが長い「鰻の寝床」といわれる建築様式は、間口の幅で税金の額が決まっていたことから生まれたと知り納得する。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年03月10日

札の辻・21

 先週、県立大学で開催された「南蛮-大内時代PART3」のフォーラムを傍聴した。
 基調講演で京都大のエンゲルベルト・ヨリッセン助教授と、日本26聖人記念館のレンゾ・デ・ルカ副館長が、「サビエルや宣教師たちが見た16世紀の山口の生活文化」と、「大内の人々とサビエル宣教師たちとの対話」について各々話した。
 ふたりは流暢な日本語で、まずヨーロッパ人は古くから日本という国に対する認識を持っていたし、山口という地名も知られているが、それはサビエルが当時西の京と呼ばれた山口滞在中にローマ法王庁に送ったレポートによるものが多く、内容からもサビエルは当初の教育型宣教師から文化交流型へと変化してゆく過程がうかがえるという。
 山口でサビエルによりはじまったキリスト教の布教活動を第1期として、1640年代までに至る約100年間の日欧交流史には、数度にわたる紆余曲折は見られたものの、日本人とヨーロッパ人の接触はキリスト教布教活動を通 じ、南蛮屏風や洛中洛外図などの絵画に見るように新しい情報文化が生まれている。
 またサビエルに同行のフェルナンデスの書簡が示すように、山口で仏教僧との対話討論により、初めてキリスト教と伝統宗教の交流ができたが、それは山口の文化と宗教環境によるものだという。
 フォーラムのあとレンゾ・デ・ルカ氏とサビエルの旅について話し合った。452年前、鹿児島から山口までの行程は、冬に向かう寒さと、言葉と食事の悩みであり、それに耐え得たのは求道者の強靭な精神力であったろうと。
 欧州文化の息吹きを伝えたサビエル、受け入れた西の京を今に甦らせたい。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年03月08日

石垣のある家(山口市大歳黒川市)



 大内時代、京都の賀茂川に見立て、一の坂川を整備したといわれるが、山口市を貫通 する椹野川は淀川にあたる。その下流の大歳地区に黒川市があるが、対岸の平川の地にも黒川の地名が残る。その昔、椹野川は現在の位 置より南の地を流れていた証拠である。今の椹野川になるまで、何度か流れを変えたと思われる。水害に備え石垣上に家を建てた姿は、威風堂々の風景である。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年03月01日

明治維新先覚志士の墓(小郡町上郷)



 駅前にある海善寺の境内に維新の志士の墓を見つける。野々村三郎、高田半蔵、玉木彦助、出雲六郎の名が見える。新しい政治を望む奇兵隊・農兵隊は大田絵堂の内戦(元治元年・1864)に参画。以来小郡地区民は、衆心一致して正義派諸隊や、小郡”郷勇隊”の支援をしたと聞く。明治4年”廃藩置県”により山口県となるが、20歳代の若者達の犠牲を忘れてはいけないと思う。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺