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2002年04月28日

札の辻・21

 新緑に燃えるパークロードのケヤキ並木に、緑と白と赤の3色に染められたイタリアの小国旗がはためいている。
 これはいま県立美術館で、イタリアの世界遺産都市シエナに所蔵されている絵画・彫刻・工芸などの作品を展示した「シエナ美術展」が開催中だからである。
 イタリアは世界的に有名な都市が北から南へと連なる都市国家といわれているが、そのなかでシエナ市は11世紀の中頃に、街と農村を調和させたコンタードと呼ばれる仕組みで誕生した都市で、古くから金融業と商業を地盤にして繁栄し、隣接するフィレンツェに対抗しながら、石造りの街並みやドゥオモ(大聖堂)をもつ歴史都市となった。
 今回出展の作品は、モンテ デイ パスキ ディ シエナ銀行とキージ音楽アカデミー財団が秘蔵するコレクション約百点である。
 1500年代にシエナのカンポ広場で開催した闘牛など、祝祭の光景を画いたヴィンチェンツの大型キャンバス画をはじめ、ルネサンス様式をシエナにもたらしたシエナ派の画家達の作品が、中世における宗教的風俗を伝える。
 彫像では左手にバイブルと思われる書物を、右手にユリの花を持つ修道士像に、現代にも通 じる敬虔な祈りの姿を感じた。
 このほか14世紀に一世を風びした詩人ダンテと、彼の愛人ベアトリーチェの大理石の彫像には、500年の日月を感じさせない光沢が残っている。
 イタリアは古くから多くの芸術家を生んだ。ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと数えてきりがない。彼等は自らの人生を大理石やキャンバスに刻んだ。
 シエナの国営エノテーカ(ワイン館)でイタリアワインを傾けたい。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年04月21日

札の辻・21

 街道の数だけ物語がある-というキャッチフレーズで、朝日新聞の「日本の街道」が刊行された。
 人、風土、旅情をたどる企画で第1号は京都・若狭街道、いわゆる鯖街道の紹介である。
 中世以降日本海の若狭湾でとれた魚のカレイ、小ダイ、トビウオ、アジなどが小浜から一昼夜で京都まで運ばれたが、その代表格はサバであったという。
 日本海の魚を内陸部に運ぶ街道としてはほかに鰤街道がある。
 中部山岳地帯の飛騨や信濃(松本・伊那地方)では正月用の魚としてなくてはならないものにブリがある。ブリは越中の富山湾や能登半島の海でとられ、塩をして運ばれた。飛騨地方ではこれを越中ブリというが、信濃ではこれを飛騨ブリと呼んだ。勿論飛騨でブリがとれるのではないが、富山から中継地の高山を経たブリが、さらに野麦峠を越えて信州へと送りこまれたことから生じた呼び名であるという。
 645年(大化年代)に国家体制が整えられ、全国的に行政区画として安芸、長門といった国が設置され交通 路が発達し、東海、北陸、山陽、南海、など7つの道ができてきたが、本格的に街道とされたのは江戸期に入ってからで、幕府は江戸日本橋を起点に、東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道を五街道とし、それに伴う脇往還ができ中央と地方、町と町を結ぶ主要交通 路となり、街道筋と呼ばれる宿場に経済・文化が発達した。
 ところで山陽道は徳川幕府の政策により五街道からはずされ脇街道とされていたが、九州や西国諸藩の参勤交代の要路として整備拡充されたのは1600年代である。兵庫の西宮から下関までに46の宿駅を持ち、各宿に盛衰の日月が刻まれてきた。    (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年04月19日

太刀売町(太刀売・堂の前)



 萩往還道の竪小路、その本筋にあたる大市と堂の前町の交差点を札の辻というが、その道筋を南に下る場を太刀売町(立売町)という。今も昔の雰囲気を残すこの通 りは、大内時代から太刀を売っていた場と思われるが、下り坂の地は立売が自然だと思う。その道沿いで”大売納税貯蓄組合”の看板を見つける。その意味は不明だが、その文字からこの地の繁栄の時代を思う。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年04月14日

札の辻・21

 石走る垂水の上のさわ
 らびの萌え出づる春に
 なりにけるかも
 万葉の古歌にもあるように、野づらに芽吹く山菜のいのちの鼓動を知らせるのは、まずワラビである。
 先週の日曜、山菜を食べることや、酒の肴の手づくりなどで話の合う花屋の主人と、阿東町から徳地町にかけて山菜採りに出かけた。
 職業柄山野草を愛する自然派の彼は、ワラビのほかにコゴミ、ウド、タラの芽などが、中国山地の山々のどこを探せばたくさん採れるか地理的にくわしい。
 この日木戸山トンネルを抜けると、阿東地区は田植えの準備中で、コブシの花の終わった山ぎわの棚田には、すでに水が張られていた。その棚田につづく山の斜面 が、白一色に彩られているのは、段丘に造成したナシ園の満開のナシの花であった。これからリンゴの花も咲き東北地方並に果 樹園の春がたけなわとなる。
 早く暖かくなったので、ワラビの伸びは良いかと思ったのだがそれほどでなく、薄みどり色の若葉を広げたフキや、赤味を帯びた芽と茎に勢いのあるイタドリが目立つ。
 阿武川上流の里山から一転して、今度は佐波川上流の峡谷へと道を替える。
 大原湖に至るまでの峡谷の山肌は、ヤマザクラとヤマツツジが見事に咲いていた。そして聞こえてくるのは野鳥の囀りである。繁殖期を迎えたウグイスやホオジロが、高音を張ったり長く複雑につづけて鳴いたり、各々に恋歌とテリトリー宣言の交唱が賑やかだ。
 タラの芽、ワラビ、ゼンマイ、コシアブラの芽など採ってきた山菜は早速天ぷらで食べる。目と、耳と、舌にたしかめる季節感が楽しい。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年04月12日

高倉三宝大荒神(萩市大井)



 平川の高倉荒神社は、大内氏の始祖といわれる淋聖太子がわが国に渡来したとき、佐波郡に建立されたといわれる。その後、大内氏5代重村が荒神山に移したと伝わる、周防国の荒神様である。
 一方、応永21年(1414)、大内盛見の時代に創建されたといわれる長門国の荒神様が、萩市大井にある。家内安全、火難消除などの幟が並ぶ277段の急な階段には、年齢を感じた。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年04月07日

札の辻・21

 春の早い訪れで、3月下旬に満開となったサクラを2カ所で見た。
 まずは3月28日、一ノ坂川河畔の夜ザクラである。香山園、木戸神社、椹野川河川敷と、市内には多くの花見場所はあるが、新しく芽吹きのはじまった鳳翩の山襞からの湧き水をあつめて、清冽なせせらぎの音をひびかせる一ノ坂川には、あの「春の小川」の歌のように、抒情的風景が感じられる。
 電照を浴びた満開の花びらにたゆたう梢の重なりには、心を奪われるほどの美しさがあった。
 3月28日は旧暦で2月15日にあたる。1551年、フランシスコ・サビエルが2度目に来山し、大内義隆に謁見したのは、旧暦2月中旬であったから、新暦では4月上旬となる。451年前、一ノ坂川河畔のサクラが如何なる姿であったか知る由もないが、山口盆地を囲る山々にはヤマザクラが咲き、ツツジもほころびはじめていたことだろう。ポルトガル王の正使として、礼装を花色の風にひるがえしながら西の都に入ってきた異国人に、町の人たちはいつもと異なる春を感じたに違いない。
 3月30日には北九州市は小倉城のサクラを見物した。城内のサクラは散り初めを迎えていたが、風格のある天守閣を背景にした花には見応えがあった。
 豊前小倉城は、15万石藩主小笠原氏の居城である。1632年から1866年に至る藩政の歴史を秘める城壁の石組みに花吹雪が舞う。想えば1866年の夏、第2次長州征伐で長州軍はこの城を攻略した。翌67年に長州藩と小倉藩には和解が成立している。
 中世に西の京とまで呼ばれた町並みを偲ぶサクラと、明治維新の敗者から100万都市となった古城のサクラに、各々の歴史の花影を見る。       (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年04月05日

小路(山口市久保小路)



 今年は例年より2週間位早い桜の開花であったが、一の坂川の桜は見事であった。桜を見た後に久保小路に足を向ける。地名について古い伝記に”窪小路”とあるが、下立小路からやや傾斜している事で、一の坂川の氾濫がくり返された地と思う。久しく保つ小路へと漢字が変わった現在、この地は飲食店が目立つが、昭和10年代までは検番や料亭があった所であり、その名残は今もある。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺