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店長情報

2002年05月31日

伊藤音市翁功績碑(山口市小鯖)



 安政2年(1855)、小鯖の地に生まれた音市は、稲の品種に一生をささげた人で、早稲種の代表品種を県下は勿論、全国に広めた。その功績を称えての碑であるが、碑の裏面 に刻された文字は昭和の時代であり読みやすい。
 同地にある忠魂碑も昭和3年建立、昭和天皇即位の御大典を記念して、同時期に建設されたものだと思う。碑は小鯖出張所前庭にある。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年05月26日

札の辻・21

 五月尽。下旬にやっとさわやかとなった5月も、蛍の夜が果てると入梅となり、やがて炎暑に向かう。
 いまの時季によく見られたあのゴッホ画く「麦秋」の田園風景も少なくなり、麦ワラでつくる麦笛の音色も聞こえず、また蛍篭も姿を消している。

 分け入っても
 分け入っても青い山
        山頭火

 麦秋は遠くなったが、山は青葉、若葉である。
 1926年初夏、山頭火は色褪せた法衣と、破れた網代笠の姿で、熊本から高千穂山地を越え、日向路へとたどる山並みの道を行乞行脚した。迷いに生き、酒に生きながら素朴に自然の中に句を求めた旅である。
 お隣りの韓国にも19世紀末に朝鮮半島各地を放浪しながら、鋭い風刺と哀歓のある詩作を続けた金笠という詩人がいた。
 彼は名門旧家で没落した生家の生活苦から逃れて出奔し、足の向くままに一カ所に定住することの無い笠と竹杖による托鉢の旅の中で、人に請われて詩を書き、路銀を得ると酒代にするという放浪の果 てに、路傍で野たれ死にをし孤独な一生を送った。

 山深く水深く
 旅人の愁いも深い
 暮れ方の湧水を飲むと
 月が唇に掛かった

 これは金笠が金剛山に滞在したときの詩である。
 没後130年、”朝鮮の山頭火”と呼ばれるこの詩人が、いま韓国では異常なほどの脚光を浴び、「金笠」という銘柄の焼酎が造られ、居酒屋の店名にもなるという状況で、山口の地酒山頭火にも通 じるものがある。
 人間至る所青山(墓所)ありと僧月性は言った。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年05月24日

船山八幡宮の杜(山口市仁保市)



 仁保の井開田から宮野に向かう途中、いつも気になる山を訪ねる。その森は仁保市に鎮座されている船山八幡宮の杜であった。建久8年(1197)源頼朝の命により、仁保の庄の地頭となった平子重経が勧請(源久寺境内)したが、後、平子氏6代重嗣が正平2年(1347)にこの地に社殿を移したものが現在の社といわれる。後方の森は古墳を思わせる形のいい杜である。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年05月19日

札の辻・21

 ことしは大型連休を含む5月上旬に天候不順の日がつづいた。
 曇、曇、曇後雨、曇、曇、雨、雨、晴、曇後雨、雨、曇、曇、雨。これが4月28日から5月10日までの気象記録である。5日のこどもの日だけが五月晴となり、鯉のぼりが薫風に躍る姿を見せたのは救いであった。
 季節のことばが、きびしく定められている俳句では、雨だけでは季語にされていない。日本の雨は四季を通 じ各々に独特の風情があって、戦前の文部省唱歌「四季の雨」にもあるように、「降るとも見えじ春の雨」と、芽吹きのみどりを煙らせて降る雨を春雨としている。
 春雨を科学的に分析すると、中国大陸の黄土砂漠地帯で発生した砂アラシが上空に吹き上げられ、北西の季節風に乗って朝鮮半島から日本列島にまで到来する黄砂が検出される。黄砂は雨が降るのに必要な氷晶核の役割を果 たしているといわれる。氷晶核とは、水蒸気を凝結させ雨滴をつくるための心核を指す。この春は4月の中下旬に連日の如く黄砂が訪れているから、菜種梅雨とも呼ぶ長雨の要因は黄砂にあるかも知れない。

 雨はふるふる  城ケ島の磯に  利休鼠の雨が降る

 大正2年4月、一家をあげて湘南は三浦半島の三崎に移住した北原白秋は、傷心を抱きながらこの詩を書いている。
 井上靖の「本覚坊遺文」によると、茶人千利休は黒みがかったみどり色と、みどり色を帯びたねずみ色を好んだので利休色とも呼ばれたという。
 連日、雨の中に独居していると、城ケ島ならずとも青葉闇が利休色に見えてくる。   (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年05月17日

御坊淵と山藤(山口市仁保一貫野)



 仁保の郷から、仁保中郷奈美線(県道197号)の途中、頂上を少し下った一貫野地区を流れる坂本川に御坊淵がある。淵の岩に3個の人の足跡が残るといわれるその場は、その昔に琵琶法師が岩伝いに川を渡った跡といわれる。流れの上に山藤の樹があるが、5月に入った今も花をつけている老樹の、昨年の写真を見ると、今年は花の量が少ないことが気になる。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年05月12日

札の辻・21

 鴻ノ峯山麓の5月を歩くと、薄みどり色をしていた木々の若葉が濃くなり、エゴノキは白く小さい花を枝にあふれさせていた。
 山頂に向かって吹き上げる薫風に、広葉樹林がざわめき、葉裏を返し波打って揺れる情景を、季語では青嵐と呼ぶ。
 今年も青葉満ちる庭園を眺めながら、山菜を食べる楽しみに恵まれた。毎年のことだが、湯田温泉はホテル喜良久の主人中村さんの、赤妻高台にある自宅で山菜料理を囲んだ。
 山菜は中・四国山地や、とくに東北地方では古くから主食と同等に利用されてきた。
 農文協の「日本食生活全集」によると、雪深い奥羽山系の地域では、春の雪解けを迎えると、ワラビ、ゼンマイ、ミズ、フキ、ノビル、コゴミ、ウルイ、ウド、タラの芽などが急速に伸びてくる。
 長い冬を耐えてきた人々は、一家総出で山菜採りに精を出す。そしてワラビやゼンマイは雪崩の多い傾斜地によく生えるというように、各々の山菜の自生地を心得ていて、山小屋に泊まり込みで採集するが、タラの芽を採るときは、必ず一芽を残し、後から出る追芽は摘まないようにするなど、山菜保護の決まりも守っているという。
 山形では、月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山をめぐる山岳宗教の修験者や信者にとって、山菜は宿坊における貴重な糧であった。
 喜良久の中村さんは、奥出雲の出身なので、山菜採りや料理方法にもくわしく器用である。
 当日同席の県立大岩田学長は、自らが管掌する長門大寧寺裏山の山野草にも想いを馳せ、陶芸家の大和保男さんは、日々対峙する土が生む自然の味覚におどろき、一座は野生の食卓に魅了させられた。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年05月10日

山頭火句碑(山口市仁保市)



 仁保上郷に犬鳴の滝があるが、滝に行く途中に”分け入れば水音”の句碑を見つける。自由の俳人種田山頭火は、昭和8年7月28日、この地で1泊して托鉢し、徳地に向かう道中に多くの句を残したといわれる。漂泊の旅をし、昭和7年から13年まで小郡の其中庵に住まいするが、この碑に彫られた文字は、生前、山頭火と親交のあった詩人、和田健さん所蔵の直筆の書によるものである。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年05月03日

旧県立教育博物館維新記念室(山口市春日町)



 新緑が美しいパークロード沿いに、県立博物館がある。大正6年に県立教育博物館として開館、その一角にある維新記念室は、この時に併設されたといわれる。維新に功績のあった吉田松陰、木戸孝允などの遺品や遺墨を展示しており、防火と盗難防止のためのレンガ造りと聞く。現在の本館は昭和42年に改築されたものだが、私が旧博物館の建物を撮影したものは1枚だけ残っている。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺