アクセスカウンタ
QRコード
QRCODE
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 69人

店長情報 トップページ
店長情報

2002年06月30日

札の辻・21

 まるで、戦国という戦乱荒涼たる時代と同時代とは思えないほどの落ち着きを感じさせる日本画を観賞した。いま、県立美術館で開催中の雪村展がそれである。
 「雪」という字のつながりや、山水画という画題の共通点から、雪舟と雪村は同時代の画家の如く思われ勝ちだが、全く時代も作風もかけ離れている。
 雪舟は1420年頃から1507年頃までの画家であるが、雪村は1500年頃から1580年頃に存在している。
 1542年の10月、雪村は雪舟の山水画を師としながらも「自分の画くものは全く独自のものである」と出身地の常陸に記述を残している。
 山容、樹木、人物、楼閣、そして大胆に画かれた瀑布が立体的に迫ってくる山水の構図には、雪舟の技法とは明白な違いがある。
 ともあれ、中世から江戸時代にかけて、画僧たちの画題に多く登場するのは、達磨大師、寒山拾得、布袋和尚であろう。
 各僧がそれぞれの内に秘める人間味が、筆によって個性的に表現されて面 白い。雪村の寒山拾得や布袋の表情と動きにほほえましいユーモアが感じられ、江戸時代に寒山の再来かといわれた仙涯和尚の画く布袋にも通 じる滑けいさがある。
 雪村画でいまひとつ注目されるのは写実画で、幕末にシーボルトが日本の植物図製作を委嘱した長崎の画家川原慶賀の図柄に劣らぬ 筆致が、300年の時空を超えて雪村に見られることにおどろく。
 キジ、ウズラ、オシドリなどの鳥に配する芙蓉や菊の花鳥画の中で、ひときわ目を惹かされたのは、大型のニシ貝の殻に活けた春蘭の画である。ほんのりと薄紅の色使いには、春浅い日溜まりにひっそりと咲く春蘭の孤独感が伝わる。(鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年06月28日

王子神社跡(山口市小鯖)



 県内でも歩かずに滝が見られるのは、鳴滝だけではないかと思う。一・二・三の滝とあるが、三の滝が一番大きく、その流れは迫力がある。滝に行く途中の泰雲寺入口にある王子神社跡は、鳴滝の鎮守として紀州熊野の那智権現の神霊を迎えての神社と聞くが、明治43年小鯖八幡宮に合祀される。大内弘世が再建したといわれる棟札の写 しも残っているといわれる古い神社である。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年06月23日

札の辻・21

 変化に富む日本の四季は降る雨もまたいろいろである。東南アジアの米作地帯は5月下旬から遅速はあるがモンスーンに入り、わが国では梅雨入り、梅雨寒、梅雨湿り、長梅雨など雨期に関わる言葉も多い。
 この梅雨時期に咲く花がある。
 アヤメ、アジサイ、ザクロ、クチナシ等と多彩だ。
 アヤメはハナショウブやカキツバタと同じアヤメ科で、ハナショウブはノハナショウブが原種、葉の中筋がはっきり浮き出している。アヤメは中筋が目立たない程度だが、カキツバタは全く無い。水郷で知られる茨城県の潮来では「音頭と踊り」でアヤメのしおらしさを表現しているが、「いずれ菖蒲か杜若」という言葉もある。由来は源三位 頼正が武功により朝廷から美女を賜るとき、選び悩んで詠んだ和歌からきたともいわれている。
 梅雨時期に咲くアジサイも花期は長い。花の色も白、うす緑、青、紫、淡紅色などまさしく七変化する。牧野植物学博士によれば日本特有の植物で、野生にはヤマアジサイ、ガクウツキがあるという。日本の動植物を世界に紹介した幕末のオランダ人シーボルトは、長崎に在留中の愛人であった「お滝さん」の名を偲び、アジサイの学名を「オタクサ」としたことは有名。
 多い雨で色濃くなった青葉の中に、鮮やかな深紅の花をつけるのはザクロである。「和名抄」によれば923年頃に中国から渡来したもので、中国では果 樹花木として栽培されている。

 萬緑叢中紅一点

 宋の詩人王安石が石榴の葉の緑と花の紅を詠った詩で、男性に伍する女性をたとえる紅一点の語源となった。雨に咲く花には女性とのゆかりが深い。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年06月21日

四階楼(山口県上関町)



 最近改装された四階楼は、明治12年、維新の志士であり、ハイカラ好みの小方謙九郎が建てたものといわれる。外景は擬洋風建築であるが、内部は東洋的なムードもあり、ドイツ製のステンドグラスに、その時代を感じる。
 その後の変遷で、昭和28年佐々木重太郎の所有となるが、この度、山口市社会福祉協議会の会長に就任された、佐々木重行さんの実家である。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年06月16日

札の辻・21

 ヒマを利用し野菜づくりに励む友人がいる。長い間の県庁勤務を終えてからはじめた気ままな畑仕事らしいが、時季ともなれば、それなりの野菜が収穫されるようで、ことしも初夏を迎えてとれたての見事なタマネギが到来した。
 いつかは出来すぎてヘチマかと思うほど大きくなったキュウリも届いたが、それほどになるまで畑に出るヒマが無かったのだと思う。あるいは持病の腰痛が起きたのかも知れない。
 さくもつ事典によると、タマネギは世界の野菜の中でもっとも古い歴史をもち紀元前5000年頃のカルデヤ国でも、また紀元前4000年頃のギリシャでも、いずれもタマネギは神聖なる野菜として、神殿に供える祭事が行われたことが、ギリシャやローマ時代の記録に残っているという。
 現在では東西の料理に欠かせないタマネギが、日本に渡来したのは明治になってからで、明治初年の「西洋蔬菜栽培法」にタマネギの品種が紹介されているが、アメリカとフランスから輸入し北海道の札幌村で試作した。その後明治24年頃には大阪の泉州でも本格栽培され、シドニーへ輸出するようになった。
 野菜のルーツを訪ねる「野菜探険隊異色紀行」(文芸春秋版)によると、中国西部の天山山脈から更に西へ、タシケントやサマルカンド、そしてヒンズーク山脈あたりを踏破しつつ、タマネギの原種らしきものを発見したという。
 タマネギは砂漠の涯に至るはるかなる距離と歴史を持つ野菜であると知り、到来した大タマネギを大事に軒先に吊した。
 ともあれ、今は村夫子然として土に親しむ友人であるが、長い役人生活の中では、ひっそりとタマネギの皮をむいたこともあったであろうか。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年06月14日

棯畑のノハナショウブ自生地(山口市小鯖)



 鳴滝の前を通り行くと棯畑に通ずるが、この地に県指定天然記念物のノハナショウブ自生地がある。ノハナショウブはハナショウブの野生種といわれ、アヤメ科の多年草で、九州から北海道までの湿性原野に自生するといわれる。
 平川地区にある吉田のノハナショウブも同種のものと聞く。ショウブ、アヤメ、カキツバタの違いが、最近なんとなく分かった気がする。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年06月09日

札の辻・21

 書棚を整理していたら、「火の車板前帖」という本が出てきた。
 詩人草野心平氏が東京小石川に赤提灯の店「火の車」を開店したのは、昭和27年の春であった。
 その頃、神田で出版関係の仕事をしていた私は、都電の初音町停留所で降りて、白山上に向かう電車道の近くにある店によく行った。今から50年も前のことでまだ若い頃の話である。
 「火の車板前帖」を書き、私に恵送してくれたのは当時店の手伝いをしていた橋本千代吉さんである。橋本さんは草野心平氏と同じく福島出身の青年だった。心平詩集「日本沙漠」の蛙の詩に出てくる「福島県石城郡上小川村の川原に」の村で、今はいわき市となっている。私とよく店に行ったのは、やはり石城出身で当時早稲田文学に所属していた津国という男だった。
 店の黒板には詩人らしいメニューが書かれていた。
 白夜-冷奴、五月-山菜サラダ、悪魔-酢ダコ、美人の胴-板ワサ、天-日本酒、麦-ビール、鬼-焼酎、白樺-ウォッカなどと。
 火の車は、文字通り経営も火の車であった。
 あの頃の文学、新聞、出版に関わる連中の飲みっぷりはすさまじかった。
 心平氏自身も、夕飯でもない、夕食でもなく俺のは夕飲だと称し、肴は小皿に少し、一升ビンからのコップ酒で大抵客より先に酔っていた。結局は家賃、酒屋はおろか豆腐屋にまで借金し3年で店を閉じた。
 きのふもけふも火の車。
 道はどろんこだけど。
 燃ゆるは夢の炎。
 心平作詩、深井史郎作曲「火の車の唄」がなつかしい。橋本千代吉さんはどこかで元気だろうか。飲んでいるとすれば私と同じ「鬼」かも知れぬ 。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)

2002年06月07日

旧制山口高校講堂(山口市糸米)



 旧制山口高校は、大正9年糸米の地に本館が完成するが、2年遅れて完工された講堂は木造2階建である。木造で石造の雰囲気を出した努力が見える。
 昭和29年新制山口高校の所有物となるが、大正時代の建築様式は、現在も存在感があり、青春の思い出を偲んで、訪ねる人が多いと聞く。大正建築物として大事にしたいものである。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年06月02日

札の辻・21

 隅田川の川風に乗って、櫓太鼓の音が聞こえてくる大相撲の五月場所に、最近ではめずらしく4度も満員御礼の垂れ幕が下がった。
 ゆかた姿で両国橋を渡って場所入りする力士たちや、色どり豊かにはためく力士幟に、江戸情緒の名残を偲ぶファンも多い。
 粋人で相撲を愛した池田弥三郎氏は、桟敷で相撲茶屋の運ぶ幕内弁当に、そら豆の入る五月場所が好きな江戸ッ子であった。
 氏の随筆のなかに「そら豆と大相撲」という一文がある。
 『季節ごとの喰べ物は、その季節の行事の記憶に密着する。そら豆と五月場所の大相撲とは、今にからみあってなつかしく私の記憶を刺激する。そら豆の喰べ頃は短い。場所のふれ太鼓が東京の下町を廻って歩く頃、わが家の夕食の膳にも、場所の桟敷にも、いのち短いそら豆が登場したものである』と。
 江戸の大関より郷里の三段目という言葉が相撲界にはある。郷土出身力士に熱い声援を送るファン気質を表現している。
 戦前には郷土の山や川などゆかりの地名をつけた力士が多く、山口県出身では明治以後初めて昭和10年に入幕した防長山がいる。ほかに安芸ノ海、備州山、九州山、佐賀ノ花、武蔵山、天竜川、天城山、名寄岩、佐渡ヶ島など、日本地図を広げ見るようだった。
 この場所の番付で、出身地をシコ名にしている幕内力士は、安芸乃島、土佐ノ海、和歌乃山の3人だけで、幕下上位 にわが郷土力士で元十両の琴岩国が4勝3敗と勝ち越した。
 また力士出身地も国際的となり、ハワイに続くモンゴル勢の活躍がある。今回はじめて韓国出身の春日王が6勝し幕下から十両入りを確実にした。共生の風はW杯だけではない。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻