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店長情報

2002年07月28日

札の辻・21

 過日、友人から萩市見島のウニの瓶詰が届いた。例年のことだが、彼は瓶詰の箱に「俺の雲丹」と印刷したラベルを貼っている。それほどに思い入れの強い見島のウニは、対馬暖流に洗われる海藻を食んで育ったせいか風味が強い。
 見島は萩市の北方約50キロの沖合に浮かぶ周囲約18キロの孤島であるが、第4紀に日本海の沈降により、陸地の最高地点が島となって残ったものだといわれている。
 島の歴史は古い。それを物語るひとつにジーコンボ古墳群がある。
 古墳群は島の東南海岸一帯に長さ300メートル、幅50~100メートルにわたって群在する積石塚で、1960年から3年間の調査で200基もあることが判明し、海岸の玄武岩を利用した群集墳としては全国的にもまれで、中から出土した装身具、武具、古鋳銭などの副葬品から被葬者は高度の文化をもち、見島が古くには前線的軍事基地となっていた時代に駐留していた武人と推測される。万葉時代の防人の島ともいわれてきた。
 見島では爺婆のことを「ジー公」「バー公」と呼ぶことから祖先の墓という意味でジーコンボ古墳群と呼ばれるようになったと聞いている。
 わが家の庭隅にイキシアという南アフリカ原産の球根植物がある。10年ほど前に知人が見島北岸の崖に咲いていたものを持ち帰り株分けしてくれた。毎年初夏になると、伸びた花茎に稲穂状の薄紅色の小さい花をつけるが、日本海を航行する船舶によって球根が漂着したとも考えられる。
 タイ、ブリ、マグロ、ハマチ、そしてウニ、サザエ、アワビと黒潮のもたらす豊饒の海が見島を囲む。
 「俺の雲丹」に万葉の夏を想う。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年07月26日

麻羅観音(長門市俵山)



 「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観」と辞世を詠んだ大内義隆公は、天文20年(1551)秋、長門大寧寺で重臣陶晴賢氏に攻められ自刃する。嫡男義尊公は、山を越え落ちのびようとするが捕らえられ惨殺される。末子の歓寿丸は、この地で殺され男児の証拠に男根を切られたと伝えられる。里人が哀れんでこの社を建て霊を慰めたという秘話が今も残る。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年07月21日

札の辻・21

 ことしは台風の発生が早くから相次いでいる。
 年によって変動はあるが、北太平洋南西部に発生する台風は年平均28個で、そのうち日本に上陸するのは3、4個といわれている。それが7月中旬までに5、6、7、8号と続いて列島を襲来した。
 記録に残る最も早い台風は1916年4月15日で、遅い台風は1894年12月10日である。
 『老人は海を見渡した。そして今、自分が独りきりであることをしみじみと思った。深く暗い海の中へ虹色の光線が射し込み、ゆるやかなうねりがあった。空には海鳥の一群がくっきりとその姿を刻み、ときには雲に溶けた。老人はハリケーンの季節にハリケーンの襲来していないときが、一番良い天気に恵まれることを知っていた』。
 これはヘミングウェイの代表作”老人と海”の一節である。
 台風5号が東支那海を北上後、朝鮮半島を横断し日本海へと抜けた7月7日(日曜)、前夜までの風が治まったので秋穂湾に出漁した。
 早朝6時前、灰色の雲の間から陽光のこぼれる中を竹島沖へといそぐ。はるかな陸地に、きらら博跡のドームが白鯨を連想させる姿で見えた。
 ”老人と海”は1958年に映画化された。大半を独りで出演したスペンサー・トレシーは、孤独な老人の限界と、海に生きる男の意地を熱演し、男っぽい乾いた作品が、全世界の映画ファンの共感を得た。
 さて、わが老人と海の釣果は、午前中だけの釣りでアジとキスが約50尾。
 ところが、今度は台風6号が過ぎたあと、友人から見島沖で釣れたという大ダイが届いた。その見事なウロコの輝きに見とれ、こちらは若人の海だなと思った。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年07月19日

禅昌寺の魚鼓(山口市小鯖)



 開基は大内義弘、開山は慶屋定紹で、応永2年(1395)といわれる。現在の本堂は嘉永3年(1850)に建てられた。回廊は県内で一番絵になると思う場に、魚鼓がある。雲水に食事や諸事を知らせるものである。いま開催中の開山忌では、施餓鬼(先祖・故人の冥福を祈る事)が行われているが、9万枚といわれる境内の建造物の瓦をのぞみながら散策するのもいい。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年07月14日

札の辻・21

 東京の孫が朝顔市で買った1鉢が届いた。
 7月6日から8日まで、浅草入谷の鬼子母神境内で恒例の朝顔市が開かれる。江戸時代には入谷田圃と呼ばれていたこの周辺では、朝顔の栽培がお百姓さんの間で行われていたが、明治から大正に至って都市化が進み、田圃と朝顔が消えた。終戦後、地元有志の努力で朝顔づくりが復活し、現在では江戸川区や葛飾区の業者が栽培した朝顔を、行燈仕立などにして掛け声高く早朝から売り出す市が立ち、江戸の夏を偲ぶ風物詩となっている。

 銭湯で聞く朝顔の  うわさかな   子規

 薬用として遣唐使により渡来した朝顔の種子は、元禄時代からは観賞用栽培が盛んになり、西南中国大陸からヒマラヤに原生する植物が、より大輪へ、また多彩 を競うようになり、栽培家たちの間では大輪派と、変わり咲き派に分かれているという。
 ところで朝顔は光化学スモッグの被害調査にも利用される指標植物となった。オキシダントを吹きつけられると、朝顔は葉が枯れはじめ、全面 に漂泊斑が現れて、夏を終える頃には無惨な姿に変わる。このため朝顔による公害調査は、中学生等の協力を得て関東6県をはじめ全国的となった。 東京都公害研究所にある調査用の朝顔は、スカーレット・オハラと呼ばれている。これは映画「風と共に去りぬ 」のラストシーンでオハラが「明日は明日の風が吹く」とつぶやいたセリフから命名されたと聞くが哀感がある。
 送ってきた朝顔には”団十郎”という花名があった。歌舞伎界の名門、成田屋市川団十郎の代々が使用する羽織の色エビ茶に由来するとか。梅雨あけの花が見たい。      (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年07月12日

足湯(山口市湯田温泉)



 松田屋ホテルと、ホテル松政の間の通りを”湯の香通り”という。この通りにある足湯は、常連客で途切れる事が無い。深さ20センチ弱の温泉に毎日1時間はつかるという婦人もいれば、本を読む若い女性もいる。湯田温泉には、もう1カ所(観光案内所前)足湯があるが、ここは、観光客の姿が多く目に付く。不謹慎な考えだが、ビール片手に足をつけてみたいと思う。  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺

2002年07月07日

札の辻・21

 わが書斎に風変わりなものが2つ存在する。
 ひとつは磬石と呼ぶ長さ20センチ、幅五センチほどの矩形の石である。学名を「サヌカイト」という。この石は叩くと高い金属音を発する。サヌカイトとは「讃岐の岩」という意味で、世界中で香川県にだけ産する。1891年にドイツの地質学者ヴァインシェンク氏が調査発見、サヌカイトと命名し全世界に紹介した。
 磬石は大小さまざまな形をした自然石で、巨大な岩と岩の間にはさまれており、これをこわれないように掘り出すには注意が必要で、万に一という稀少価値のものだという。
 今から約1500万年前、瀬戸内海がまだ陸地であった頃、火山帯の大爆発で流出した熔岩の一部が磬石層となったもので、昭和の初期には音階の出る石琴として製作されるようになり、英国の皇太子にも献上されている。
 私は高松市のテレビ局からゆずりうけ、書棚に吊してやはり磬石で作られた小さい槌で叩き、音階の高低を時折り楽しんだりする。
 いまひとつはサイカチの莢を帯状に連ねて書斎の柱にぶらさげている。
 サイカチ(皀莢)はカワラフジノキとも呼ばれ、本州から九州にかけての山野や川土手に自生する。マメ科の落葉高木で、5、6月に淡黄色の小さい花を房状につける。果 実は長さ30センチにも及ぶ固くねじれた莢に包まれている。わがサイカチは、実のはじけたあとの莢だけのもので17個ある。この莢は数年前の秋、ソウルの市街地にあるサイカチ並木で拾ったのだが税関は無事通 過した。
 磬石の音色に太古の瀬戸内陸の広大さを、またサイカチ暖簾に紺青のソウルの秋天を連想しながら、梅雨じめりの部屋に無聊をかこつ日々である。 (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻

2002年07月05日

和裁専門学校跡(山口市今井町)



 古風な建物が気になっていたが、その前身は、大正7年中村コトリ氏が太刀売に創立した山口高等家政女学校。時代の変遷(戦争)で廃校になったが、昭和31年卒業生の強い要望により、中村チヨノ氏が和裁専門学校として再建したのが現在の建物である。50畳の教室が2つあるこの学校から巣立った人達は、多いと思う。(平成元年廃校)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)山口周辺