2004年03月14日
札の辻・21
シロウオは秘めやかに春を伝える魚族であるが、そのいのちは短かくてはかない。北浦の松本川、掛淵川、瀬戸内の岩国室ノ木川、周南夜市川それに佐波川でも獲れる。
絢爛たる元禄文化が花開いた頃、江戸深川に草庵を持った松尾芭蕉は門人から、もらって食い乞うて食うことで、どうにか飢えて死ぬことなきと、依存主義で質素な暮らしをつづけ、蒟蒻、蕎麦、大根、餅、茄子、瓜、海苔、豆腐、納豆などで、魚肉は喰べなかったと、北島廣敏著「喰べる芭蕉」に紹介している。
だが白魚は食べているのだが江戸ではない。
深川の芭蕉庵は隅田川河畔にあった。江戸時代から明治の中頃まで、隅田川は白魚漁が盛んで、歌舞伎の河竹默阿弥作「三人吉三│」での名台詞「月もおぼろに白魚のかがりも霞む春の空」はその光景を述べている。この時代の白魚は高価で、庶民の口には入らなかった。芭蕉が白魚を味わったのは「野ざらし紀行」によると1760年京都から江戸へ向かう途中で桑名の宿であった。
あけぼのやしら魚
しろきこと一寸 芭蕉
という句を残す。
ところで隅田川と桑名はシラウオでシロウオとは別種で少し大きい。
明治期に松江に居住したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲も、夫人節子の「思い出の記」によると、「白魚の吸物」を好んだらしいが、八雲がよく食べたのは卵で、毎朝牛乳2合と生卵5個、夜食には刺身、焼魚又は煮魚、酢の物でとくに卵を使った日本料理を愛したという。今、もし八雲が生存していたら?(鱧)
絢爛たる元禄文化が花開いた頃、江戸深川に草庵を持った松尾芭蕉は門人から、もらって食い乞うて食うことで、どうにか飢えて死ぬことなきと、依存主義で質素な暮らしをつづけ、蒟蒻、蕎麦、大根、餅、茄子、瓜、海苔、豆腐、納豆などで、魚肉は喰べなかったと、北島廣敏著「喰べる芭蕉」に紹介している。
だが白魚は食べているのだが江戸ではない。
深川の芭蕉庵は隅田川河畔にあった。江戸時代から明治の中頃まで、隅田川は白魚漁が盛んで、歌舞伎の河竹默阿弥作「三人吉三│」での名台詞「月もおぼろに白魚のかがりも霞む春の空」はその光景を述べている。この時代の白魚は高価で、庶民の口には入らなかった。芭蕉が白魚を味わったのは「野ざらし紀行」によると1760年京都から江戸へ向かう途中で桑名の宿であった。
あけぼのやしら魚
しろきこと一寸 芭蕉
という句を残す。
ところで隅田川と桑名はシラウオでシロウオとは別種で少し大きい。
明治期に松江に居住したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲も、夫人節子の「思い出の記」によると、「白魚の吸物」を好んだらしいが、八雲がよく食べたのは卵で、毎朝牛乳2合と生卵5個、夜食には刺身、焼魚又は煮魚、酢の物でとくに卵を使った日本料理を愛したという。今、もし八雲が生存していたら?(鱧)
Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)
│札の辻