2008年02月16日
札の辻・21
相撲雑誌で山口県出身では戦後の関取第一号である栃忠関が亡くなっていることを知る。
=大相撲春日野部屋のOBで、元十両栃忠の友景通忠氏は1月21日結腸癌のため東京・墨田区の病院で逝去、享年67歳=の記事だった。
栃忠関は1940(昭和15)年現山口市徳地生まれ。県立防府高校相撲部で高校2年のとき九州宇佐大会と静岡国体に個人優勝するなど活躍、卒業時には慶應大学相撲部への進学が内定するが、当時の横綱栃錦(元協会理事長)の熱心な誘いで春日野部屋に入門し、59年5月友景の本名で初土俵を踏み、60年名古屋には早くも幕下に昇進し相撲ファンに注目される。しかし61年5月に左ヒザを骨折して以後低迷するが、62年初場所に栃忠と改名し65年5月ついに新十両となる。
思い出す。十両昇進のとき週刊誌が「総理大臣を輩出する山口県が新関取に化粧回し1本も贈れず!」の大見出しで相撲不毛の地と報道した。これを知った慶應相撲部が栃忠関へ化粧回しを贈り、晴れの土俵入りに間に合わせる。
十両9場所を経てヒザの欠陥で67年に廃業したが180センチ136キロ不運の美男力士を忘れない。
彼以後県出身力士は十両に太刀光、白法山、琴岩国だが入幕は魁傑(現放駒)で大関になり優勝2回、現在協会理事で審判部長の要職にある。
ともあれ戦後はじめて国技館に山口県出身のアナウンスが流れたのは栃忠関であった。 (鱧)
=大相撲春日野部屋のOBで、元十両栃忠の友景通忠氏は1月21日結腸癌のため東京・墨田区の病院で逝去、享年67歳=の記事だった。
栃忠関は1940(昭和15)年現山口市徳地生まれ。県立防府高校相撲部で高校2年のとき九州宇佐大会と静岡国体に個人優勝するなど活躍、卒業時には慶應大学相撲部への進学が内定するが、当時の横綱栃錦(元協会理事長)の熱心な誘いで春日野部屋に入門し、59年5月友景の本名で初土俵を踏み、60年名古屋には早くも幕下に昇進し相撲ファンに注目される。しかし61年5月に左ヒザを骨折して以後低迷するが、62年初場所に栃忠と改名し65年5月ついに新十両となる。
思い出す。十両昇進のとき週刊誌が「総理大臣を輩出する山口県が新関取に化粧回し1本も贈れず!」の大見出しで相撲不毛の地と報道した。これを知った慶應相撲部が栃忠関へ化粧回しを贈り、晴れの土俵入りに間に合わせる。
十両9場所を経てヒザの欠陥で67年に廃業したが180センチ136キロ不運の美男力士を忘れない。
彼以後県出身力士は十両に太刀光、白法山、琴岩国だが入幕は魁傑(現放駒)で大関になり優勝2回、現在協会理事で審判部長の要職にある。
ともあれ戦後はじめて国技館に山口県出身のアナウンスが流れたのは栃忠関であった。 (鱧)
Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)
│札の辻