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2016年05月18日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「四境戦争」から150年⑳ 大村益次郎

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「四境戦争」から150年⑳ 大村益次郎
▲イネも過ごした卯之町(愛媛県西予市)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(5月11日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

卯之町の名医

 高野長英が去り、蘭学教授が欠員となった宇和島藩は、後任として、益次郎の招聘を計画した。
 1850(嘉永3)年、彼が適塾に在塾していた頃、宇和島藩は、緒方洪庵にその話を持ちかけた。しかし、師から話を聞いた益次郎は、郷里で医業に専念したいという理由により辞退した。
 あれから3年。彼は医院を廃業し、ついに宇和島へ赴くことを決める。1853(嘉永6)年9月、29歳の時であった。
 こうして決然として宇和島に向かう益次郎は、周防大島から松山へと渡り、途中、宇和郡卯之町(現・愛媛県西予市)在住の名医・二宮敬作のもとを訪れた。当時、敬作は50歳。宇和島藩主の内命により医院を開業し、帯刀を許されていた。
 地元で多くの患者から慕われていた彼は、急病と聞けば深夜でも山中に往診し、夜を徹して治療に当たった。謝礼、薬代など全く眼中になく、帳簿もつけていなかった。
 また、かつてシーボルトに師事していた彼は、師の娘である楠本イネをこの地に預かり、5年間養育したこともあった。
 そんな敬作とともに、益次郎は駕籠に揺られ宇和島へと入る。郷里を発って約1カ月後のことであった。
(続く。次回は5月25日付に掲載します)


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Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)四境戦争 大村益次郎
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