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2016年12月21日

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「四境戦争」から150年(51) 大村益次郎

明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「四境戦争」から150年(51) 大村益次郎
▲普門寺観音堂(白石)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(12月14日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

兵学校と普門寺塾

 1863(文久3)年。この年、藩論が攘夷に決定した長州藩は、政治の中心地を萩から山口へと移した。沿岸地域の萩城は有事の際、敵の攻撃に直面することになり防備上適切ではない。また、防長二州を指揮する上でも不便だという理由によるものである。
 こうして、4月16日、藩主・毛利敬親は、表向きは湯田温泉への湯治という名目で萩を出発。山口の中河原の御茶屋に入ると、そこに政事堂を置いた。山口移鎮である。
 こうした動きに伴い、山口における文武の総合学舎である山口講習堂も、山口明倫館と名称を変更。文教の中心地も萩から移転した。
 そして、この山口明倫館には、国学を学ぶための文学寮と、洋式兵学を学ぶための兵学寮が置かれたが、1864(元治元)年2月19日、兵学寮は、萩練兵場の移転合併。教練場の建物を増設するなどして兵学校と改称された。
 そこで益次郎は、兵学校教授を命じられ、洋式陸軍士官養成のための総括責任者となった。また、この時期、彼は白石の普門寺の境内で私塾である普門寺塾を開き、ここでも門人たちに洋式兵学を教えていたといわれている。
(続く。次回は12月28日付に掲載します)


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Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)四境戦争 大村益次郎
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