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2017年07月19日

明治維新鴻業の発祥地、山口 「四境戦争」から150年(81) 大村益次郎

明治維新鴻業の発祥地、山口 「四境戦争」から150年(81) 大村益次郎
▲午後の光が差し込む扇原関門跡(益田市)

実際の紙面はコチラ(公開期間は発行から1カ月間です)

(7月12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

津和野藩の動向

 一方、二手に分かれて進む長州軍の一隊は、扇原関門付近までやって来た。当時、この辺りには津和野藩と浜田藩の関所がそれぞれ置かれていたが、津和野藩の関所を守る兵士たちは、長州軍到着の知らせを聞くと、そこを引き上げた。
 この石州口の戦いで津和野藩は、幕府から出兵を要請されていたが、長州藩との衝突を極力避けるため、兵を城下に集めていた。以前より勤王派として知られていた津和野藩は、長州藩とは誼を通じていたのである。

発砲命令

 まず長州軍は、使者を浜田藩の関所に向かわせ、通過を訴えた。だが、幕府軍の配下である浜田藩の岸静江は、5人の部下と16人の農兵を従え、その要求を拒んだ。
 浜田藩との交渉が決裂した長州軍の使者は、その場を去った。残された道、それは武力による強行突破である。
 攻撃に備えるため静江は、宝蔵院流の槍を取ると農兵を指図し、関所の右側に配置した。長州軍は、街道端の木陰に身を隠し、静江らの動静をうかがっていた。
 そこで静江は、部下に対し、ついに発砲の命令を下した。ここに戦いの火蓋が切られた。
(続く。次回は7月26日付に掲載します)


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Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)四境戦争 大村益次郎
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