2011年01月01日
嘉村礒多と河上徹太郎

▲嘉村礒多文学碑と河上徹太郎の銘文 ※写真は栗林和彦氏
ふるさと山口を想う
サンデー山口取締役相談役 福田 礼輔
国木田独歩をはじめ山口県内に文学の足跡を残した作家の中で、とくに郷土とのしがらみが深いのは嘉村礒多と河上徹太郎である。
嘉村 礒多
戦前に作家尾崎士郎は嘉村礒多を偲んで「吾々同時代の作家で、文学青年のあたらしい情熱を刺激しているのは今や横光利一と嘉村礒多である」と書いている。嘉村が処女作「業苦」を発表したのは1928(昭和3)年で31歳であり、1933(昭和8)年に「神前結婚」を発表後に37歳で死去したというわずか6年程度の作家生活であった。
礒多の作品は「貧苦と病苦と妙な夫婦関係」ばかりでなく、自己のもつ内面の暗いところまで明らさまにしている。
―おびただしい旅烏の群が山麓の五重の塔にむらがっていたが、一羽が啼くと連立って山を越えてゆく。平蔵は言いしれぬ不安を覚えた。更に藩公累代の幾つかの銅像の木の間かくれに隠見する小高い丘の公園や、音を立てヽ町を貫く流れの岸の古風な教会が総て沈みかけた夕陽の光に―
は「新潮」に発表した小説「生別離」の中に見る山口の風景である。
嘉村礒多の死後に文芸評論家福田恒存は「嘉村礒多の文学は文学史の図取りにその確かな位置を占めている。彼の作品にはじめて私小説という真象をのぞき見た感じを禁じ得なかったが、その意味において彼は私小説を完成し同時にその完成により己が生涯と共に近代日本の文学史上で彼のみにふりあてられた役割りをはたしている。いま僕は嘉村が涙にかきくれながら平凡安穏な生活を夢に描いた故郷の椹野川河畔を思うばかりである」と。
河上 徹太郎
河上徹太郎は父が日本郵船に勤めていた関係で長崎で生まれたが郷里は岩国である。河上の祖父河上逸は吉川藩士で勝海舟とも交遊があり、反骨のマルクス経済学者河上肇も一族である。だから徹太郎の出自には士魂とキリスト教に見る反時代精神の源泉を感じることもできる。
河上の批評精神の形成過程は自伝的エッセー「私の詩と真実」(1954年)に述べられているが、彼は音楽評論から小林秀雄や中原中也らとの交友によって文芸評論へと傾注してゆく。
河上の晩年に「吉田松陰論」がある。
幕末という激動期に生きた松陰(寅次郎)は志士として人間として具現された武士道に生きた異端の革命思想家であり、観念の世界に安住しなかった実践者であると河上は見ている。
河上と嘉村
その河上徹太郎と嘉村礒多は中原中也も関係していた詩壇の仲間の集いで、葛西善蔵を通じ郷土人として知り合う。
河上は礒多について色の黒い生真面目な男でいつも端座して話すのだが、宇野浩二や久保田万太郎も彼を推奨したという。
後に嘉村の故郷の常栄寺に「文学碑」ができたので河上は河盛好蔵と除幕式に参列した。
「除幕のあと我々は嘉村の家の川向うにある山腹の墓地に詣でた。
天稟院文賢独秀居士
が墓碑銘であった。私は生れてはじめて句を作った。
墓守る礒馴れ松や
秋立ちて 」
河上徹太郎の随想集「旅・猟・ゴルフ」講談社版の一節である。
Posted by サンデー山口 at 00:01│Comments(0)
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