2015年01月03日
歴史的空間の足音 大河ドラマ花燃ゆに思う サンデー山口取締役相談役 福田 礼輔

▲花燃ゆの舞台となる松下村塾

▲(左)高杉晋作生誕地のある菊屋横町 (右)吉田松陰東送の碑
=山口県というのは自然がまろやかで、気候は温和でありお行儀や言葉づかいの品の良さというのは日本のどの県よりも良く、県にお武家の気品というものが地熱のように残っている=
これは司馬遼太郎著「街道をゆく」第一巻“長州路”の一節である。
吉田松陰、乃木希典、河上肇、末川博といった人々には、温厚に仁者のおもむきがあり、松陰も自ら権謀術数はできないとは述べている。
NHKのドラマ花燃ゆは江戸末期から新しい日本へと変動してゆく胎動期が中心となる。
松陰こと吉田寅次郎が住んでいた屋敷のまわりは畑で野菜が作られていた。寅次郎は初期の教育をこの畑の傍でうけた。菜園づくりをしている謹直な叔父玉木文之進からである。あるとき寅次郎が朗読しているとき頬にハエがとまった。かゆいので朗読をやめて掻いたら文之進が走り寄ってきて殴られた。この事は後になって寅次郎の妹である文が書き残す。
その後寅次郎は明倫館に入り、長崎に留学したり東北地方各地を訪ねるなどして時の幕府からにらまれるようになり、遂には実家に蟄居するようになる。
士分でなく足軽の身分であったり農民の子弟が通う実家近くに出来た塾が松下村塾である。
当時の日本の人口は約2500万程度で、萩の松本村で20代の無名の青年と、10代の弟子たちが書を読み語り合うことになる。弟子たちは寅次郎を尊敬した。すでに12歳の頃から藩内第一の秀才といわれ、萩の町並みしか知らぬ弟子たちにとって寅次郎の知る日本各地は尊敬と感激に値した。
寅次郎は25歳になったとき藩の牢屋である野山獄へ投獄される。
当時の幕府から嫌疑をかけられ、寅次郎は江戸に送られ29歳の若さで刑死するに至った。
司馬遼太郎著「幕末」に次の一節がある。
=高杉晋作は伝馬町から白馬にまたがり葬列の先駆をした。途中で幕吏から葬列中止を求められたが高杉は(われら長州人は勤皇の志士の遺体を葬ろうとするものだ邪魔をするな)と抜刀して長州藩用地(現在の松陰神社)まで通り抜けた=
司馬遼太郎が湯田温泉で語ったことがある。
「山口県は並はずれた人材県だといわれる。理由が明治時代の主導勢力だとするのは単純すぎる。江戸末期に多数の人間家族がせまい山口県に閉じこめられ、遺伝上のコンデンスミルクのようなものができあがったと考えるのが自然ではあるまいか」と。
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