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2008年10月10日

稜線

 大殿・竪小路地区を中心に行われた「アートふる山口」はことしも市内外の人気をあつめた。
 今から104年前、山口町時代のアートふる山口の町筋は異国人集団の長期滞留に湧いた。それは1904・5年の日露戦争で捕虜となったロシア兵たちが山口へ移送されたからだ。山口市史1955年版には大要次の記述がある。
 =1905年4月4日、奉天(現瀋陽)から護送されたロシア兵捕虜の下士官・兵約500名が宇品から山陽鉄道で小郡に到着、見物の町民がひしめく中を護衛されつつ、徒歩で洞春寺、瑠璃光寺、龍福寺、法界寺の収容所に入った。2日後には捕虜将校100名も小郡着、すぐ馬車で70名は祗園菜香亭へ、30名は伊勢小路来島亭(後の愛山荘)に収容される。菜香亭では大広間を区切り寝台と椅子を搬入し、玄関には第一捕虜将校収容所の看板が出され一般町民の出入は禁止された。
 捕虜への対応は山口連隊の管轄で国際法により比較的寛大に行われ、特に将校は市内見物や商店街での買物をし、兵士たちも香山園散歩、湯田温泉入浴などが許可され翌年2月に帰国した。=
 今のアートふる山口の町並みに当事の状況を伝える資料が残存してはいないだろうか。(F)


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Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)稜線
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