2013年01月01日
明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は「七卿落ち」から150年①
風雲急を告げた幕末期。1863(文久3)年8月18日、七卿と長州藩を中心とした尊王攘夷派の勢力は、薩摩・会津を中心とする公武合体派の策略によって京都を追われた。失脚した三条実美ら七卿は長州藩へと身を投じ、ここ山口で1年余りを過ごす―。今年は「七卿落ち」から150年。その山口での足跡や、意外にも楽しそうな生活ぶりについて、彼らに詳しい松前了嗣さんに寄稿していただいた。
七卿と下向時の年齢
三条実美・27歳
三条西季知・52歳
東久世通禧・31歳
壬生基修・29歳
四条隆謌・36歳
錦小路頼徳・29歳
沢宣嘉・29歳
京都をあとに
▲七卿落図(山口県立山口博物館蔵)
▲久坂玄瑞筆七卿落今様歌(山口県立山口博物館蔵)
「世は刈薦と乱れつつ 紅さす日もいと暗く 蝉の小河に霧立ちて 隔ての雲となりにけり―」
これは久坂玄瑞が七卿と共に都を去る際に詠んだ今様歌である。
8月18日の朝議一変は正に青天の霹靂だった。七卿、長州藩兵、御親兵、浪士ら総勢2千人は降りしきる雨の中、兵庫の港を目指し、そこからは総勢400人が20隻の船に分乗し、海路を取り長州へと向かった。
三田尻へ
七卿を乗せた船は瀬戸内海を進み、8月27日に三条、三条西、壬生、四条、錦小路は徳山に上陸。山陽道を三田尻へと向かった。
この時、東久世と沢を乗せた船は先に到着しており、この後七卿は、三田尻御茶屋に2カ月間滞在した。
山口へ
三田尻滞在中に沢が脱走。残る六卿は山口へ移ることになった。
10月26日、三条西、東久世、壬生、四条、錦小路の五卿は大内御堀の氷上山真光院へ。翌27日には三条が湯田の草刈屋敷(現・四つ葉のクローバー)へと転居。その後三条は、現在の井上公園の地にあった何遠亭に移った。
翌年5月の錦小路病没後は、三条西と壬生は草刈屋敷へ、東久世と四条は前町の龍泉寺に転居する。
詩酒を愛す
「詩酒愛すべし 美人憐れむべし 時に喫煙して去り 一息天を過ぐ」
これは高杉晋作が詠んだ煙管自賛という詩(原文は漢詩)である。
六卿も山口滞在中は詩酒を愛した。
彼らは憂国の思いを詩に表し、藩主はじめ諸藩の志士たちと酒を酌み交わし、時事を論じた。
朝倉八幡宮
▲三条さん何遠亭で新年を迎える(画マツノ書店)
翌1864(文久4)年1月10日、その年初めての子の日。三条は久留米の神官・真木和泉らと共に恒例の「小松引き」の行事で朝倉八幡宮を訪れた。これは、正月初めの子の日に小さな松の木を引き抜いてくる遊びで、長寿祈願を意味する。
彼らは境内の松を掘り取ろうとしたが、あいにく鍬を忘れてしまう。
その時、真木が一言発した。「こまつたなぁ」
「小松」と「困った」を見事にかけた、そのおやじギャグに一同は大爆笑。彼らは鉄鞭で松を掘り取った。
「時しあれば世にあいおいの姫小松きみに引かるることもありなん」
三条はこの松を鉢植えにし、その小枝に自筆和歌の短冊を結わい付けた。
(続く。次回は9日付に掲載します)
松前了嗣さんプロフィル
1967(昭42)年錦町(現岩国市)生まれ。小学生のころから歴史・民俗学に興味を持ち、現在は「やまぐち萩往還語り部の会」「大内まちづくり協議会」などとともに、講演活動にも積極的に取り組んでいる。
七卿と下向時の年齢
三条実美・27歳
三条西季知・52歳
東久世通禧・31歳
壬生基修・29歳
四条隆謌・36歳
錦小路頼徳・29歳
沢宣嘉・29歳
京都をあとに
▲七卿落図(山口県立山口博物館蔵)
▲久坂玄瑞筆七卿落今様歌(山口県立山口博物館蔵)
「世は刈薦と乱れつつ 紅さす日もいと暗く 蝉の小河に霧立ちて 隔ての雲となりにけり―」
これは久坂玄瑞が七卿と共に都を去る際に詠んだ今様歌である。
8月18日の朝議一変は正に青天の霹靂だった。七卿、長州藩兵、御親兵、浪士ら総勢2千人は降りしきる雨の中、兵庫の港を目指し、そこからは総勢400人が20隻の船に分乗し、海路を取り長州へと向かった。
三田尻へ
七卿を乗せた船は瀬戸内海を進み、8月27日に三条、三条西、壬生、四条、錦小路は徳山に上陸。山陽道を三田尻へと向かった。
この時、東久世と沢を乗せた船は先に到着しており、この後七卿は、三田尻御茶屋に2カ月間滞在した。
山口へ
三田尻滞在中に沢が脱走。残る六卿は山口へ移ることになった。
10月26日、三条西、東久世、壬生、四条、錦小路の五卿は大内御堀の氷上山真光院へ。翌27日には三条が湯田の草刈屋敷(現・四つ葉のクローバー)へと転居。その後三条は、現在の井上公園の地にあった何遠亭に移った。
翌年5月の錦小路病没後は、三条西と壬生は草刈屋敷へ、東久世と四条は前町の龍泉寺に転居する。
詩酒を愛す
「詩酒愛すべし 美人憐れむべし 時に喫煙して去り 一息天を過ぐ」
これは高杉晋作が詠んだ煙管自賛という詩(原文は漢詩)である。
六卿も山口滞在中は詩酒を愛した。
彼らは憂国の思いを詩に表し、藩主はじめ諸藩の志士たちと酒を酌み交わし、時事を論じた。
朝倉八幡宮
▲三条さん何遠亭で新年を迎える(画マツノ書店)
翌1864(文久4)年1月10日、その年初めての子の日。三条は久留米の神官・真木和泉らと共に恒例の「小松引き」の行事で朝倉八幡宮を訪れた。これは、正月初めの子の日に小さな松の木を引き抜いてくる遊びで、長寿祈願を意味する。
彼らは境内の松を掘り取ろうとしたが、あいにく鍬を忘れてしまう。
その時、真木が一言発した。「こまつたなぁ」
「小松」と「困った」を見事にかけた、そのおやじギャグに一同は大爆笑。彼らは鉄鞭で松を掘り取った。
「時しあれば世にあいおいの姫小松きみに引かるることもありなん」
三条はこの松を鉢植えにし、その小枝に自筆和歌の短冊を結わい付けた。
(続く。次回は9日付に掲載します)
松前了嗣さんプロフィル
1967(昭42)年錦町(現岩国市)生まれ。小学生のころから歴史・民俗学に興味を持ち、現在は「やまぐち萩往還語り部の会」「大内まちづくり協議会」などとともに、講演活動にも積極的に取り組んでいる。
Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)
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