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2015年10月07日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊳ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲諸隊の本陣となった功山寺(下関市)

(9月30日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

諸隊を説く

 「諸君が赤祢武人の説を容れ、晋作の意見を聞き入れてくれないというのなら、もはや諸君に対し、望むところはない。ただ、従来の旧誼に対し、吾輩に一頭の馬を貸してほしい。今からその馬に乗って萩へ行く。そして、両殿様をお諫めする。もし、その意見が聞き入られぬ時は、腹を掻っ切り、はらわたをつかみ出し、城門の扉に叩きつける。途中、不幸にして俗論党(保守派)によって捕らわれ、斬殺されるもそれは天命。今日の場合は、一里行けば一里の忠。二里行けば二里の義を尽くす時。安座しちょる時じゃあない!」
 12月12日夜。晋作は長府の御楯隊屯所を訪ね、総督・御堀耕助をはじめ諸隊長らに対し、打倒保守派を叫び、決起を訴えるのでした。
 その頃、藩内では、奇兵隊総督・赤祢武人が保守派と諸隊との妥協点を見出すため調停工作に奔走していました。
 「高杉さん、そう急かんでも…」
 「そうじゃ。まだ時期じゃあない」
 この時、皆は晋作の気魄に圧倒されるも、彼に賛同する者は、誰ひとりとしていませんでした。
 「皆腰抜けばっかりじゃ。つまらんのう!」
 彼は席を蹴り、ひとり夜の闇の中へと消えて行きました。
(続く。次回は14日付に掲載します)  

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2015年09月30日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊲ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲野村望東尼像(防府市)

(16日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

諸隊集結

 その頃、山口には改革派の挽回を図ろうと、奇兵隊および諸隊が続々と集結。その数およそ7、800人。
 彼らは永福寺(当時・古熊)を本陣とし、御楯隊は広沢寺(当時・古熊)、八幡隊は浄泉寺(堂の前町、廃寺)、遊撃隊は端坊(東山)、膺懲隊は神光寺(八幡馬場、現・神福寺)に屯所を置き、奇兵隊は常栄寺(当時・水の上町、現・洞春寺)に出張していました。
 いざとなれば、この町を拠点として保守派に対抗するつもりでしたが、この人数で山口を防御するのは困難であると判断。 
 当時、湯田の何遠亭に滞在中であった京都の公家・三条実美らとともに長府(下関市)に移ることとなり、11月15日、山口を発ちました。

いざ帰らん

 晋作が再び下関に姿を現したのは、11月25日のことでした。
 彼は三家老四参謀が保守派によって命を奪われたことを知り、憤然として福岡を発ったのです。
 「真心を筑紫のきぬは国のためたち帰るべき衣手にせよ」。「山口の花散りぬとも谷の梅開く春辺にたへて待たなむ」。 
 この時、野村望東尼は、帰国を決意した晋作に徹夜で着物を用意。2首の和歌を添え、彼の無事を祈りました。
(続く。次回は10月7日付に掲載します)  

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2015年09月16日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㊱ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲平尾山荘(福岡市)

(9日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

馬関潜行

 山縣有朋らに別れを告げ、晋作は奇兵隊士・伊藤伝之助を伴い、島地を抜け、富海(防府市)へと向かいます。
 そこからは飛船に乗り込み、10月29日、下関の白石正一郎邸に入りました。
 そこで彼は、偶然居合わせた福岡脱藩浪士・中村円太と今後のことについて話し合い、11月1日、谷梅之助と変名。白石の実弟・大庭伝七と中村を伴い、海路、福岡へと向かうのでした。

平尾山荘

 福岡に着いた晋作は、長州藩の失地回復を図るため、九州諸藩を解き、保守派や幕府軍に対抗する勢力を打ち立てるため、各所で遊説しますが、うまくいきません。そこで福岡藩の月形洗蔵の紹介により、野村望東尼の草庵・平尾山荘に籠り、そこで時機をうかがうことにしました。

三家老四参謀の死

 11月11、12日の両日にわたり長州藩では、幕府に対し、謝罪恭順を唱える保守派によって、益田右衛門介、国司信濃、福原越後の3人の家老が禁門の変の責任を取り切腹。竹内正兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、宍戸佐馬之助の4人の参謀が萩の野山獄で斬首。刑場の露と消えたのでした。
(続く。次回は30日付に掲載します)  

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2015年09月09日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉟ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲金徳寺(現・法華寺)

(2日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

山河襟帯の地

 晋作が去った徳地では、保守派の唱える諸隊解散命令に反対する奇兵隊・膺懲隊が、その後も陣を張っていました。
 幕府軍に対抗する構えであった彼らの合言葉は、「徳地の弔い合戦」。
 静かな山間の村は、次第に不穏な空気に包まれるのでした。
 この地について、軍監・山縣有朋は、後にこう語っています。
 「三田尻は上国往来の官道に接して諸人の耳目を惹き易し。これに反して徳地は防州の山間に位置するも、兵を国境に出すに於いて、又山口に往来するに於いて、両ながら其便あるを以てなり」
 そして、奇兵隊日記には、陣屋割も記されています。
 「本陣、正慶院(小古曽)。第一銃隊、澄月院(堀、廃寺)。弓隊・第二銃隊、多念寺(小古曽、廃寺)。第三銃隊、金徳寺(堀、現・法華寺)。槍隊、妙楽寺(深谷、廃寺)。熕(大砲)隊、妙蓮寺(堀、現・雲相寺)。狙撃隊、宗徳寺(堀、廃寺)」
 また、訓練場所として、祇園社(小古曽)が当てられていましたが、後に正福寺(堀、現・昌福寺)に変更となりました。
 彼らは山河襟帯のこの地で、来るべき日に備え、日々稽古に励むのでした。
(続く。次回は16日付に掲載します)  

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2015年09月02日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉞ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲正慶院(徳地小古祖)

(8月26日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

燈 火

 井上家を後にした晋作は、竪小路の古見嘉兵衛邸に身を寄せます。
 そして、10月27日午後、彼の元を、親戚の者が訪ねて来ました。
 「捕吏がお前を探しよる。早う逃げえ!」
 晋作は、刀の柄の先に油瓶をぶら下げ、頬かむり。田舎から町に買い物にやって来た神官を装います。
 こうして、萩往還を柊まで行くと、そこで武士の姿に早変わり。駕籠を走らせます。
 「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし!」
 彼を乗せた駕籠は、やがて徳地に到着。そこには、奇兵隊軍監・山縣有朋の姿がありました。
 三田尻から移陣してきた彼らは、正慶院を本陣とし、周辺の数カ所の寺に分宿していました。
 晋作は、当日のことをこう記しています。
 「10月27日、賊官、余を縛せんとす。余、断然脱走し、奇隊(奇兵隊)の営に到る。山縣狂介誠心ら信切、余を留む。しこうして余もまた別に大志あり。勿々にして別れを告ぐ。時に夜すでに深し、燈火沈々、一首の誹歌を録して去る。ともし火の影細く見る今宵かな」
 ここで彼は、夜遅くまで今後の方策を協議。
 28日夜明け前、徳地を後にしました。
(続く。次回は9日付に掲載します)  

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2015年08月26日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉝ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲井上馨を見舞う晋作(絵・taeco)

(19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

萩を脱走

 「ちょっと見舞いに行って来る」
 10月25日。晋作は妻・マサにそう告げると、自宅を後にしました。
 武士の格好は出来ないため、大小の刀は持たず、9寸5分の短刀を煙草入れの中に仕込み、腰に差します。十徳を羽織り、手ぬぐいで頬かむり。草履を履き、肩には瓢箪徳利。
 「親を捨て国を去って天涯に向かう 必竟斯の心世は知る莫し 古より人間棺に蓋して定まる
 豈口舌を将って嘲譏を防がんや」
 町人姿に変装した晋作は、真夜中の萩往還を、ひとり山口へと向かうのでした。

見舞い

 「おお、聞多。どうかあ、傷の具合は」
 晋作は、山口に着くと、夜中、湯田の自宅で療養中の親友・井上馨の元を訪ねました。
 この時彼は、いったん福岡に脱走し、九州の同志と同盟を結び、諸隊とともに保守派を倒そうと考えていました。
 この考えに井上も同意。ふたりは時間が経つのを忘れ、後日の計画や天下の形勢について語り合いました。
 そして、互いに漢詩を詠み合うと、晋作は井上家を後にし、竪小路へと向かうのでした。
(続く。次回は9月2日付に掲載します)  

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2015年08月19日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉜ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲晋作が駆け抜けた萩往還一升谷の石畳(萩市)

(12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

改革派の危機

 井上馨が遭難。周布政之助が自刃。その後、山口の町には、萩から続々と保守派の政府員が移動して来ます。
 彼らは、禁門の変の失策、馬関戦争での敗北、そして長州征伐。国家の危機を招いた責任を追及し、改革派政府員に対し、辞任を迫ります。
 こうして、改革派は追われ、藩政府内は、保守派が政権を握ります。
 彼らは、藩主父子を萩へと帰し、益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老を徳山藩に幽閉。竹内正兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、宍戸佐馬之助の四参謀に対し、入牢を申し付け、晋作の同志である改革派の政府員らも、次々に捕らわれはじめるのでした。

萩よさらば

 「こりゃあいけん。次は僕の番かもしれん…」
 10月23日、その頃、山口から萩の自宅に戻り、謹慎中であった晋作は、藩政府員・楢崎弥八郎の元を訪ねました。
 「のう、僕と一緒にここから逃げんか。このままじゃあ捕まるど」
 「晋作。わしゃあ、はあ覚悟を決めた…。正道を踏んで倒れるんじゃったら、それでええ」
 「それかあ…。よし、わかった。命があったらまた会おう」
 晋作は楢崎に別れを告げ、翌日深夜。ひとり、萩を後にするのでした。
(続く。次回は26日付に掲載します)
  

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2015年08月12日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉛ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲周布政之助顕彰碑(周布町)

(5日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

暗夜の出来事

 山口政事堂で開かれた御前会議は、午前10時から午後4時にまで及び、最終的には、藩主が意を決し、藩の方針は井上馨ら改革派が主張する武備恭順に決定しました。
 その日の午後8時過ぎ、政事堂を後にした井上は、使用人の浅吉とともに帰途に就きました。
 一方、彼の意見に相対する保守派の壮士らは、湯田の旅館・瓦屋で食事をしていました。
 「腹がふくれたのう。今から運動でもせんか」
 彼らはそこを出て歩き始めます。
 「おい、今向こうへ行ったのは井上聞多(馨)じゃなかったか」
 「茶筅髷じゃったのう。井上じゃ。くそう…」
 「よし、やっちゃるか」
 こうして彼らは暗闇の中、井上を襲撃。瀕死の重傷を負わせたのです。
 そして、その翌日。改革派のリーダー・周布政之助が自刃します。
 彼は、禁門の変、馬関戦争、長州征伐。藩内の情勢悪化に対し責任を感じていました。
 そして、ある日、姫山に昇る月を眺めてこういいました。
 「ああ、今夜はええ月じゃのう…。昔は月を見れば面白かったが、どうにもならん…。月を見りゃあ悲しゅうなる。山を見ても悲しゅうなる…」
 その数日後、彼は自ら命を絶ったのでした。
(続く。次回は19日付に掲載します)  

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2015年08月05日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉚ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲晋作も眺めたであろう一の坂川

(7月29日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

改革派と保守派

 講和談判を終えた晋作は、政務役兼石州境軍務管轄の職を命ぜられ、9月3日、再び山口政事堂へと出仕することになりました。
 当時、彼が吉田松陰の兄・杉民治に宛てた手紙にはこう記されています。
 「旅宿之儀は竪小路萬代より三四軒上り、古見嘉兵衛と申者之処に御座候―」
 こうして、藩政に復帰した彼ですが、その後、突然、軍務方を罷免されます。それに対し抗議をするも、回答は要領を得ません。
 その頃、藩政府内は、長州征伐をもくろむ幕府に対し、「謝罪恭順」を主張する保守派と、「武備恭順」を唱える改革派に分裂しており、保守派が勢力を増す中、改革派の晋作は除外されていったのでした。
 そこで彼は、杉孫七郎らに相談。山口を去ることを決意し、9月17日、萩へと帰郷します。
 一方、山口では、改革派の挽回を図るため、井上馨が奔走。改革派政府員の辞表を却下し、謹慎を解き、両派を集め御前会議を開くよう、藩主父子に建言します。
 こうして9月25日、政事堂において会議が開かれることとなり、互いに、激論が飛び交うことになるのでした。
(続く。次回は12日付に掲載します)  

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2015年07月29日

明治維新鴻業の発祥地、山口 ―詩酒愛すべし 美人憐れむべし―㉙ 【幕末歴史小説】 行雲流水 高杉晋作


▲アーネスト・サトウ

(22日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

300万ドルの賠償金

 8月10日、2回目の講和談判が行われましたが、晋作は潜伏中のため欠席。
 次いで14日、3回目の談判が始まりました。
 この時、彼は藩主の代理として出席。連合国側は、海峡の安全通行、上陸の許可、砲台増強の停止など求め、更には、300万ドルという多額の賠償金を要求します。
 しかし、晋作はそれを断固としてはねつけます。
 「我々に攘夷を命じたのは朝廷と幕府であります。よって、我が長州藩に300万ドルの賠償責任はない。賠償金は、現在、政権を有する幕府が支払うべきものである!」
 この時の様子を、連合国側の通訳アーネスト・サトウは、後にこう語っています。
 「彼らは、長州人の士気がまだ阻喪しきっていないことを我々に知らせたかったのだ。そして、我々の要求があまり過大である場合は、屈伏よりもむしろ、戦うことを望んでいたのである」
 自宅の座敷牢から一転。大舞台へと呼び出された青年、晋作。
 彼は、長州藩の危機を救うため、世界の大国を相手に、怯むことなく、堂々とした態度で談判に臨みます。
 こうして、3回にわたる交渉の末、休戦条約を締結。連合国側が要求した賠償金は、幕府に請求することで合意しました。
(続く。次回は8月5日付に掲載します)  

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