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2007年04月29日

2基の供養塔を発見・再建立



 19日から2日間、大内御堀の問田川河畔にある小早川隆景夫人の館跡といわれのある場所で、隆景公と夫人のものと思われる供養塔が掘り起こされ、再建立と周辺整備が行われた。作業の指揮をとった柴田病院の柴田眼治理事長は「今後もこの地の整備と調査をしていきたい」と話している。
 小早川隆景は毛利元就の第3子で、厳島の戦いでは水軍を率いて毛利軍の大勝に貢献するなど、毛利家の隆盛に寄与した知勇兼備の武将で、豊臣政権下では五大老の一人として全国に名をはせた。
 1597年に隆景公の没後、隆景夫人は問田に移り住んだと言われ、「問田のお方」とも呼ばれている。1619年に夫人も没した後は、お付きの人たちがその館を隆景公と夫人二人の菩提寺とし祀っていたというが、無住寺となった末に廃寺となり、位牌などは別の寺に移されたとされている。
 その後も敷地は地域住民によって祀られてはいたが、年月がたつにつれて木々が繁り、荒れ地になってしまった。
 この地を訪れた柴田病院の柴田眼治理事長が、古代からまじないの一つとして古墳のふたなどにも使われていた「杯状穴」という穴が掘られた石があることを確認。ここには墓か何かがあったのではと推測し、周囲を探ると、供養塔の一部分らしき石などが見つかった。
 そこで本格的に再生しようと、柴田理事長と同病院職員らにより、19日から2日間かけて復興作業が行われた。生い茂る草木を除去し、敷地中に散らばっているそれらしき石を集め、また、土に埋まっていたものも掘り起こすなどして収集。それらを組み立てて2基の供養塔と灯籠が復元できたため、再建立した。柴田理事長は「ここにはまだ何かあると思う。整備をし、もう少し調査などをしてみたい」と話している。
 隆景公の墓は広島や京都など国内に何カ所かあり、市内でも隆景公を「中興開基」とする下小鯖の泰雲寺に夫婦の供養塔が建てられている。
  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)ニュース

2007年04月29日

札の辻・21

 4月からNHK朝の連続ドラマの舞台は東北の盛岡となっている。
 以前4月の中旬に盛岡を訪れたとき、めずらしいサクラを見たことがある。石割桜と呼ぶ盛岡地方裁判所の前庭にあるサクラだ。巨大な花崗岩の割れ目に成育したエドヒガンザクラで、直径1.3㍍樹齢約300年の大樹はゆるぎなく満開の花姿を見せていた。
 盛岡市は人口約20万の岩手県の県庁所在地。市内を北上川の支流中津川の清流が貫流している古都で、椹野川のある山口と似通っている。
 山口に詩人中原中也が生まれたように、盛岡は石川啄木の町でもある。
 
 不来方のお城のあと
 の草に臥て空に吸は
 れし十五のこころ

 旧制盛岡中学時代の啄木は、不来方城と呼ばれた南部藩の盛岡城址をよく散歩し、数学嫌いの彼は文学書に読みふけるひとときを持った。
 啄木が詩や歌に情熱を傾けたのは18歳から26歳で病没するまでの短い青春に過ぎない。「一握の砂」「悲しき玩具」に収録された歌は、主に生活的でそれに叙情的な視点をからませている。
 “やわらかに柳青める北上の岸辺”や“ふるさとの山に向いて言うことなし”と岩手山に対した啄木には、川風が吹き城下町の匂いが漂う盛岡を忘却の果てにおくことはできなかった。
 中也がさやかに風の吹く故郷を忘れ得なかったように。   (鱧)  

Posted by サンデー山口 at 00:00Comments(0)札の辻