2006年11月05日
札の辻・21
長州はいい塔をもっ
ている。―――
と、惚れぼれするお
もいであった。
長州人の優しさとい
うものは、山口に八
街九陌をつくった大
内弘世や、ザビエル
を保護した義隆など
の大内文化を知らね
ば、わからないよう
な気がする。 遼。
国民文学と呼ばれた「街道をゆく1長州路」の中から、この一文を刻んだ司馬遼太郎文学碑が国宝瑠璃光寺五重塔のそばに建立されたのは2000年の夏であった。
あれから6年の日月が経つ。
あの「長州路」の中で司馬遼太郎は「その頃の山口政権は中国地方や北部九州の肥沃な地方まで治めたうえに『大内船』で象徴されるごとく、さかんに海外貿易をやり山口という地名は海外に広く聞えた。弘世から義隆まで大内文化200年、フランシスコ・ザビエルを保護した義隆、長州人の開明主義は幕末でにわかに出たものではなく、すでに中世期にあったといっていい。」と書く。
その後、司馬遼太郎記念財団の上村館長から便りがあった。
「瑠璃光寺五重の塔と緑を背景にした文学碑は、さっそく財団ホームページをマイナーチェンジしとりあげました。財団では街道をゆくツアーを企画していますが長州路は重要なポイントです。長州路紀行が実現できれば記念碑建立のときお世話になった山口の皆さんと交流もできると楽しみにしております」と。
いま山口県は国民文化祭である。奥行の深い山口の歴史文化を全国に発信したい。 (鱧)
ている。―――
と、惚れぼれするお
もいであった。
長州人の優しさとい
うものは、山口に八
街九陌をつくった大
内弘世や、ザビエル
を保護した義隆など
の大内文化を知らね
ば、わからないよう
な気がする。 遼。
国民文学と呼ばれた「街道をゆく1長州路」の中から、この一文を刻んだ司馬遼太郎文学碑が国宝瑠璃光寺五重塔のそばに建立されたのは2000年の夏であった。
あれから6年の日月が経つ。
あの「長州路」の中で司馬遼太郎は「その頃の山口政権は中国地方や北部九州の肥沃な地方まで治めたうえに『大内船』で象徴されるごとく、さかんに海外貿易をやり山口という地名は海外に広く聞えた。弘世から義隆まで大内文化200年、フランシスコ・ザビエルを保護した義隆、長州人の開明主義は幕末でにわかに出たものではなく、すでに中世期にあったといっていい。」と書く。
その後、司馬遼太郎記念財団の上村館長から便りがあった。
「瑠璃光寺五重の塔と緑を背景にした文学碑は、さっそく財団ホームページをマイナーチェンジしとりあげました。財団では街道をゆくツアーを企画していますが長州路は重要なポイントです。長州路紀行が実現できれば記念碑建立のときお世話になった山口の皆さんと交流もできると楽しみにしております」と。
いま山口県は国民文化祭である。奥行の深い山口の歴史文化を全国に発信したい。 (鱧)
Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)
│札の辻