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2008年10月25日

札の辻・21

 1904-5(明治37・38)年の日露戦争が終結し、講和条約が調印されたのは1905年の9月で今から103年も前の秋である。
 その戦争によるロシア兵の捕虜は7万1千余で、ロシア側の捕虜となった日本兵は約2千だった。ロシア兵の捕虜収容は金沢に4500、松山に3600など秋田から熊本まで全国の29カ所に及んでいる。
 山口市史によれば当時の山口町に割り当てられた捕虜は約600人で、そのうち将校70人は祇園菜香亭に収容され大広間を区切り寝台と椅子を搬入して対応した。
 異文化圏から到来の捕虜たちにとって、最大の関心事は食習慣の違いであったが、松山収容所の記録によればパン、肉、スープが主食で、将校には牛乳、紅茶まで提供され、明治30年代の日本庶民の食生活とは比較にならなかった。
 明治20年頃から西洋料理部を開設していた菜香亭でもパンやスープによる食事を支給し、当時の防長新聞に「捕虜の食事」として、詳細に報道され次のような記事もあった。―収容中の捕虜将校には買物外出を許可し、平均二百円以上に及ぶ買物は不景気の町では上得意で、将校連は八木呉服店、小林漆器店等にて呉服物、美術品を購入し故国土産にするとのこと。―
 山口連隊の統轄で国際法にもとづき捕虜は比較的寛大に処遇された。
 10年後に―カチューシャかわいや―の唄も生まれた。   (鱧)


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Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)札の辻
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