2013年04月27日
札の辻・21
耽美派の作家永井荷風が亡くなったのは1959(昭和34)年の4月30日でこの日を荷風忌と呼ばれている。
千葉県市川市の新築の自宅には当時2千数百万円の銀行予金を残し、万年床の上で紺色の背広を着たままひとりで絶命していた。医師の推定で時刻は午前3時頃とされ死因は胃潰瘍の吐血による窒息死とされた。
享年80才の急死に至るまでの2ケ月間、友人・知人たちの入院治療のすすめにも一切耳をかさず、一服の薬、一本の注射すら拒絶した。(創林社版・文学忌記載)
また東京堂版「作家の臨終」によれば、「新しい寓居の奥の間に敷かれた万年床の中で血を吐いて死んでいた。死因は胃かいようであったが、最初の吐血は枕元の火鉢の灰にしたが2回目はもうそこまで身をよせる力がなく、枕元の畳の上に、そして3回目の血のかたまりが喉にひっかかり老人の呼吸をとめたと推定される。独居する彼には看とる人もなく、朝になって通いのおばさんに発見されるまで遺体は六畳の間のホコリの積った中に放置されたままであった。」との記述も残る。 荷風は東京外語中退、創作「野心」「闇の叫び」「地獄の花」などで注目され、外遊、帰国後に名作「ふらんす物語」「アメリカ物語」で注目され文化勲賞、芸術員会員となったが「すみだ川」「断腸亭日乗」で市井人の姿を崩さなかった。(鱧)
千葉県市川市の新築の自宅には当時2千数百万円の銀行予金を残し、万年床の上で紺色の背広を着たままひとりで絶命していた。医師の推定で時刻は午前3時頃とされ死因は胃潰瘍の吐血による窒息死とされた。
享年80才の急死に至るまでの2ケ月間、友人・知人たちの入院治療のすすめにも一切耳をかさず、一服の薬、一本の注射すら拒絶した。(創林社版・文学忌記載)
また東京堂版「作家の臨終」によれば、「新しい寓居の奥の間に敷かれた万年床の中で血を吐いて死んでいた。死因は胃かいようであったが、最初の吐血は枕元の火鉢の灰にしたが2回目はもうそこまで身をよせる力がなく、枕元の畳の上に、そして3回目の血のかたまりが喉にひっかかり老人の呼吸をとめたと推定される。独居する彼には看とる人もなく、朝になって通いのおばさんに発見されるまで遺体は六畳の間のホコリの積った中に放置されたままであった。」との記述も残る。 荷風は東京外語中退、創作「野心」「闇の叫び」「地獄の花」などで注目され、外遊、帰国後に名作「ふらんす物語」「アメリカ物語」で注目され文化勲賞、芸術員会員となったが「すみだ川」「断腸亭日乗」で市井人の姿を崩さなかった。(鱧)
Posted by サンデー山口 at 00:00│Comments(0)
│札の辻